2018年06月21日

はらはら

ふと、ハラスメントって、降り積もった淋しさ、あるいは満たされなさ(こっちは直接的だな)に起因しているんだろうなと思う。だって誰だって触れ合いたいし、温められたいし、その欲は誰にでもあるし生まれる。日常的に我慢したり人との会話対話や遠慮がちな接触でそらしたりしても、降り積もる。それを特定の相手、安心感をもてる安全な相手に恒常的に求められない場合、対処のしようがない、ただ我慢するしかない、だと、個体それぞれに限界がやってきてしまってもおかしくない。

つまり、それらはその状況下におかれたら、誰しもに起きうることだと思う。客観的に見た自分への眼差しで自らの衝動を抑える、相手への敬意や友情に基づいて抑える、というのは理想的でそれを実行できる人ももちろんいる。それを目指したいとも思う。でも、人間の体は時に暴発する、というか、身体をコントロールしきれるかどうかには不確定要素が常にある、という実感もある。愛情ゆえの発露もある。激しく暴れなくても静かにだって暴れる。身体は未知というか宇宙的(青年団の演劇「日本文学盛衰史」を見て、原作も読んでる今、内面も宇宙的だと改めて思う)。総合体としての身体はシンプルな器官や機能の集まりであると同時に複雑怪奇な発展をしていくしろもので、心と体、別々のように認識してしまう時はあるけれど絡み合いまくり。精神や心理や感覚、認知もそうか、ていうかこの言葉の定義がもっと厳密でなきゃならないけれど、、密接で絡み合いまくりだ。

セクハラもパワハラも全ての事象をひとつの問題のようにまとめるのは暴力的な見方だと私は思う。
一つ一つ背景や状況が大きく異なるものから共通の課題を抽出したり、解決方法への知恵を探したりするのはごく自然な知的なプロセスだけれど、ただ、それとひとつひとつの事象として起きたことをそのものに触れたり暑かったりするのは違う行為だ。一つ一つ、一人一人を丁寧に精確に見ようともせずに、全てのことがまるでただの自分の外にある悪やゴミのように扱ったって何にもならない。ほんとに何にもならない。収集場じゃないところに誰かが勝手に捨てたゴミの集積に自分も食べクズや唾を吐き捨ててさらに汚してるだけ。マジでこれ。醜悪。この行為が散見されたときに私はものすごく腹が立った。腹が立って立ち尽くしたんだよ。だからって腹が立ったままじゃどこにもいけないから必死こいて考える。捨てるべきゴミとは何か。綺麗に磨く必要があるものは何か。そんでそれどうやって? その掃除の仕方。つまりそれは起きたことについても自分の考え方についても振る舞いについても自分以外のものへの働きかけについても。
権力志向や支配欲からの欲求や性的な欲求以外に「不適切な」状況下においてでさえ勝手に発生してしまう自由恋愛の部分を完全には否定できない。だからって、というかどんな理由に起因しようが、一方的に一人の人間が貶められてはいけない。潰されてはいけない。絶対にいけない。そんなことはどんな環境にあっても嫌だ。許したくない。

ただ、降り積もった淋しさの問題をどうするか。いくらでも触っていい相手、なんているのか。家族だからって常に許されているわけではない。愛玩を買って出る関係、文字どおり、サービスとしてプロの方の力を借りるのは一つあるだろうけど。本当に、セックスワーカーの方々の癒す力をすごいと思う。淋しさは誰かとつながるために仕組まれた本質的な機能、なのだろうか。切なすぎる。淋しさ。結論なんてでやしなけど、ここにきてずっと、淋しさのことを考え続けてる。
posted by hamigoe at 09:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年04月15日

近況報告

新年と新年度が始まってようやく一息つけた!
久々に近況報告書きました。読んでもらう用にデスマス調。

今年から映画美学校のつながりのおかげで、都立高校で市民講師として半年間週一コマの「演劇」の授業をする機会をもらいました。4月に今年の受講生とご挨拶をして、私のタームは10月からの下半期。

大学で川俣正さんの「アートレス」に出会って以来、私の活動範囲としての芸術はアウトリーチに向かってました。ちゃんとアウトリーチができるようになりたかったから、一人前の職能を身につけた芸術家にずっとなりたかった。圧倒的な芸術家には到底なれない。が、先にアウトリーチの機会が巡ってきたので飛びつきました。それでも、アシスタントではない単独現場は初めてで、自分の芸術で高校生とクリエイションできるんだ!ってのにぶるってます。
私なんかが先生ってのはほんとまあどうかと思うんですが、ミクロとマクロ、主観と客観を行き来する演劇・映画の通路を通って、お互いに解像度をぎゅんぎゅんあげることを全力で挑みます。これから出会う10代のひとびとが、少しでも、世界ってでかいなあとか明日が楽しみとか思ってもらえますように。あとはひとりひとりと友達になりたい。

もう一つ。昨年は、夏に数年続けてきた5歳児と演劇を作るワークショップ、秋に気心の知れた映画仲間たちと「River River」のPV、冬に「海に浮かぶ映画館」さんで自作自演の一人芝居を観てもらえて十分恵まれていましたが、その間はずーーーっと吹替制作の仕事に精を出しています。最近これが自分の仕事として定着してきました。

私は映画を見るときは字幕派です。吹き替えは元々の俳優の声を奪う残酷でクオリティが下がる行為と思っていたし、残念な座組みになると実際そうなんですが、一方、吹替版を作るプロセスはとても面白いです。
なぜかというと、よい吹替版を作ること=ひたすらその作品の声を聴く仕事だと気づいたから。この物語、このキャラクター、この俳優、このシーン、この断片、この音、この編集…は何を言ってるんだってのを素材から精確に聴き取るのが一番大事で、時間や予算と闘いながら、なるべくローカル(日本)の素材で適切に組み合わせて余すところなく伝える。だから本質は翻訳作業です。

昔、同年代の天才的な翻訳者さんと話していて「まあ翻訳なんて不可能だからねー」って彼も笑っていたけど、吹替だろうが字幕だろうがそもそも不可能なんです。でも誰もが原語で映画を味わい切れるわけでもなく、日本語版というフィルターをかけるにあたり、それがごく透明に近づくことがあるのも知りました。

そもそも字幕版は元の素材を邪魔しない率が高いです。限られた字数だとしてもオリジナルに文字を載せて意味内容を補完するだけだから、何かの要素を入れ替えるわけではありません。でも、まあ文字を読みながら画面を見ることには慣れがいるというか、映画のテンポに慣れないと全然追いつけなくて集中できない、といえばそう言える。
一方の吹替版は、画面を見つめていればよい。台詞も息遣いも、元の素材で置かれていたものは余すところなく再現しようとするので実はオリジナルの情報の再現率はすごく高いです。だけど、台詞と声というすごく肝要な要素が変わるので、つまり、台詞の翻訳と声優の再現度に大きな比重がかかるので、このパート次第で総合的な再現率がものすごく左右されるってのがその難しさです。

だから特に、演出含む制作サイドとしては実力のある声優さんと翻訳者さんをずーっと探してる状態です。どちらもオリジナルの声と演技にシンクロしながら日本語と自分の声で芝居をその場で生起させられるかが勝負で、このシンクロ率が非常に高いという意味のカメレオン声優みたいな方はやっぱりいるんです。

だから言いたいことがあって、
私の周りで演劇や映画に出演する俳優さんにも、仕事として、声優業への進出も視野に入れてもらえたら嬉しいなって思っています。私が親しい範囲は現代演劇や自主映画界隈の俳優さんたちですけれど、その界隈の方々はなかなか吹替の現場ではお目にかかれません。
本業に忙しいのだから、もちろんすごく素晴らしい。ただ、仕事として次の展開を考えている方がいて、海外の映画やドラマが好きだな、人の声を聴くのが好きだな、モノマネが好きだな、いろんな声を出したりするの好きだな、って感覚があれば声優業は試してみる価値はあります。

アニメはまた特殊に求められるものがあるんだけど、私が担当してる外国映画(外画)は、「声優」の嫌なイメージの方、変な癖のある喋り・声優っぽいと感じるようなペラッペラな作り声は淘汰されます。だからそれが嫌いだから興味無い、っていう心配ならいらないです。私たちもそれはいらないから。
マイク前は舞台やカメラ前に立つのとは違う技術が必要だけど、根本は、芝居心と演じる技術を持ち合わせているのが一番なので基本的に使う筋力は一緒です。当たり前だけど、100%ギャラもあります。演技とは違うジャンルのバイトや仕事で鍛えられるものもあるけど、演じる仕事の選択肢としては挑みがいはあるはず。あと、吹替業界は実力主義で、事務所の力学ってのがほぼ働かないのもいいところです。実際、実力のある売れっ子の声優さんや、持ち役の現地の俳優さんががつんと売れた声優さん(まあこれは運…)はどんどん独立します。

演技経験者であれば声だけ預かりの事務所もあるし、単発のワークショップでまず触れてみるとか、気合い入れて養成所に行ってみるとか。事務所も結構色々なのでキャリアに応じてやりようはあります。
私が吹替版の演出になったときに(まだ時間はかかるけどいずれ)、一緒に映画作ったり演劇作ったりしていた仲間と吹替版一緒に作れたらすげーいい仕上がりを目指せると思ってるので、マジでマジで。ここまで読んでる俳優仲間がいれば、選択肢としてぜひご検討あれ。

あとこれは単に面白いからのオススメで、制作担当した海外ドラマのNetflix限定配信中の「13の理由」は面白いのでNetflix加入の方はぜひ見てみてもらえたらいいな。いじめ、自殺と、友情がテーマ。原作からドラマの時間感覚でしか描けない発展のさせ方で、10代の揺れ動きをすごく丁寧に高いクオリティで描きこんだ傑作です。誰もに視点があり、ある物事にどちらから光をあてるかでどう見えるかということ、誤った行いが起きたとしてそこからどう僕らは変わっていけるか、ことをちゃんと描いている。高校生にも見てもらいたいけど大人ももちろん。

そんなわけでしばらく表に出ないクリエイションが中心ですが、引き続き自分の創作もやりまーす。映画館で映画を見る時間が激減してるのが悩み。映画館にいきたーい!
posted by hamigoe at 15:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2017年04月18日

ものへの憧れについて

起きた出来事、例えば、りんごが落ちた、とかそういう出来事=おそらく客観的事実(これがあるのか、つう議論もまたあるけれど)と言われるものと、それを人がどう捉えるか、ってのはまったく別の層の話。何かが起きた・起きない、という(おそらくは)たった一つの出来事に対して、解釈のバリエーションの自由さ豊饒さたるやたるや。

それ自体はただの事象であるものやことを、自分の物差しで塗り絵する、物語ろうとする、人は。自己肯定のためであれ、自己・他者の理解のためであれ、何かしらの意味をよみとろうとしたり、意味を渡そうとしたりするし、している、自分も。ただ起きたことに、それってどういうものなのか、ことなのかと説明しようとする。

私の物質に憧れる欲は、そういう特定の解釈・意味づけじゃなく、少なくとも自分の解釈で語るんではなく、物語られる事象そのものでありたいって欲なのかもしれない。意味づけをしようとすることから逃れたいとはずっと思ってきた。だって自分にも他人にも、自分なりの解釈を持つ自由は尊重したいしもちろん自分にもあると思うけど、それって本人にとっては独占的で唯我独尊でいいと思うけどさ、それとは無関係に、事象はそこにあるでしょう。みたいなこと。つまり、世界はそこにあるでしょう。誰かが、何かを思うより先に、圧倒的な事実として、それを捉える存在に先行してただそこに在るもの、という事実を信じてるんじゃないかと思う。同時に、考える存在、つまり、世界を見る人間がいるから目の前に世界は存在する、ともいえるしそれを信じてもいる。だからどっちも信じてるってことを、どっちも同じくらい愛しく思う。物質になりたいってのは、つまり、考える存在=世界を見る存在である自分が、世界の側に、有り体にいえば自然物として存在したい、ってこと。ヒトという固有の物質として、過不足のない世界の構成物としての存在、というものがあると仮定し、そういうものに、私はなりたい、と思ってる、思ってるんだなー。たぶん。でもこれって同時に、永遠に、そうなりたいと思い続ける側なんだろうなーとも予感している。ぐるぐる楽しく回る。
posted by hamigoe at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年08月14日

夏の整理

誰でも、自分の声だけに、その時間だけは、自分の存在だけに全神経を傾けてくれる存在が必要なときがある。本当の声を、呼吸を、間を、震えを、そのまま、それとして/そこに存在するモノとして精確に受容しようと試みてくれる他者、その必要。でも誰にも強要できない。だってすごく大変だもの。自分の見方や意見を後退させて全神経を一つの対象に向ける、その後自分のもてる力をその対象が望む方向に向けて波紋を起こすことに専心するのって。本当になかなか起こらない。でもそれは起こる(し、いま書いてて自分でやりたいと思った)。演出家と俳優の関係でも訪れることがある、幸福な瞬間のような。本音を探る過程にも耳を澄ませてもらえる時間の確保は必要。
と同時に、他者の声に全神経で耳を傾ける存在になる時間も切に必要。こちらの目的は少し違って、純粋に自分をルーペにして声の深部、細部の襞に分け入ること。自分が別の声に没入することで行方不明になっていい時間をもつこと、と同時に行われる。水面下に潜る時間を水面の上に体を置いて行う、体は触媒として何かを反響し、広い、反映する(といいな、と信じながら行う)。この作業を私はテキストを読む行為において行っている自覚がある。これは俳優の作業や過程の一部分と重なる。だから俳優の作業や学びは大事で具体的で他者や自分の思考、作業の具体的な助けにも支えにもなった。だけど同時に、私の前提はごくプライベートな行為であって、かつそれを優先せざるをえないので、人前であるかどうか、人に見せるために形を整えていくかどうかは後退する。「職業俳優」に自分自身が必然性を感じないのはそのため(ただ、それを職業としている方には敬意を抱いています。経済的な成立に関わらず)。
その、他者の声に潜っていくごく個人的な作業の重要さは自分にとっては生存条件に近いくらいの価値。と、10年くらいの模索を経て現段階で理解している。個人的な重要さにフォーカスすると、それが行われるのが人前である必然性は後退する。なのだけど、この時、この作業や触媒となった水面の上のあらわれ(表れ/現れ)を見つめる他者がいることはまた幸運な作業の始まりでもある、ことも知っている。
私にとっては見つめることも、見つめられることもごく個人的に個体の愉悦を感じられる作業であることが優先される。その後、また第三者に向けた形にしていくかどうかの選択は別の過程。その選択をした場合の力量は未熟だけど、でもそれもまた個人的には重要な作業なのだな、こんな風に表に向けて書いているくらいなのだから。
これらの時間に潜水できるかどうかで、心身の平和が保たれるかどうかは左右される。

それを何でするか、誰とするか、というのは、自分で選ぶものなのかな? 徐々に定まるものだろうか。少なくとも目的や意識などを分け合える相手や環境にいると、集団としてある作品を提供する形に自然になる様子ではある。
posted by hamigoe at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年07月02日

Important things

適切に配置されること。
風景の中にあること。
そこに音と声が聞こえてくること。
物語が訪れること。
ものは逸脱やブラックホールを内包すること。
かたりは時空を超える旅に誘うこと。

そして最後に、その場から立ち去ること。
posted by hamigoe at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年06月16日

橋を渡して橋を渡って

少しずつ次の景色を見に向かっているのがわかる。考え方も、かっこいいと思うものも面白いと思うものも変わる。世界観や目的が変わるのではなくて方法が変わるのです。観せることを知ったからだなあ。その道を知ったからだ。道を拓く、丁寧に石を敷いていくような道の作り方を知ったからだ。観る喜びと観てもらえるように立ち居振る舞うことがわたしの中で橋がかかり、その空中で編み込んで景色の先を一緒に見ようとするような作業そのものが、橋渡しになることを体感できたからだなあ。音楽家の音により歌い手の声により、虹色の橋があなたからわたしへ、かかる瞬間を体感できたからだなあ。それに震えたからだ。誰にも読まれなくていいのだけど、自分だけのものとして置いておきたくないことは、誰に読まれてもいい場所に置いておこうと思いました。
posted by hamigoe at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年10月15日

「捨て子たち、星たち」再演

かつてかいつか、もしかしたら結構今も。代替可能で/交換可能で/無名のものだからこそ、その声は継がれて不変になりうると信じていた。けれど今同時に、代替不可能性の中に宿る存在の神秘なればこそ、と思う。その声は、消えるからこそ。余韻と余波、気配やざわめきでしか受け取り得ない、聞き取り得ない存在の震え。

音楽詩劇研究所公演「捨て子たち、星たち」 シアターΧ
posted by hamigoe at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年07月25日

かがみか

あ、そうか今ちょっとわかったかも。一人称ではどこか息苦しいわたし、みたいなのを抱えたあなた/彼/彼女へ、別の解釈を捧げる、みたいなことか。あ、これすごいな、モチベーションあがる。そうか、別の角度、別のところから見たらあなたそれだけじゃないでしょ、そうだよね? ってのを知りたいんだ、いつもいつもそれが知りたくて、それが見えると掬われるし、それを見せることで、掬えるのかもしれない、その人の、その人自身じゃ触れないわたしを。
posted by hamigoe at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年06月14日

公私混同はなはだ

昨日、コツコツ二人で続けてる稽古の前に相方の女優さんと話していて、何かを作るときの公私混同の大事さに二人ですごい納得した。どこに/誰に向かうかはものすごい大事、けどそれ以上に、個人的な差し迫ったものに何よりもぐっときちゃう。ってその感覚が共通だったという話。誰しもに当てはまる公式ではないと思われるし、含まれる割合も、バランスもサマザマ。聖俗のたとえもよくあるけれど、公の中に私が見えることもある、その逆も、少し角度を変えた言い方で耳にもする。
あと、やっぱり見せ方や伝え方、というところにすごくこだわって頑張って、ってことの大事さを毎日いたるところで思う。どうやったら面白くなるかってこと。自分が面白いことを面白いと思ってもらえるか、ってこと。ただそれだけ。
posted by hamigoe at 16:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年05月30日

ぎふんとてこいれ

その対象との距離がどうかってこと以上に、ただただ、ある存在に対してどうしてここまで失礼になれるのか、尊厳を持てないのかってことにはらわたが煮えくり返る。年に何回もないことだけど、血が沸騰するぐらい。沸騰すると蒸発すんだよな。かっとなってやっちゃいました、ってのわかるよ。考える余地なんてもてないよ、衝動だもんね。ほとんどの原因は人が人に対するときの無礼さ。ようは仁義。いきなり初めて会う人にそれやるのかよ、お前。まあやるんだよなお前は、ってことでもあるんだけど。このくだらなさが本当にくだらなくてそのことのために、大事で丁寧なことが簡単に消えるんだよなあ。はあ。ぎふんぎふん。でも、その塊をね、なんとか自分と切り離して、切り離すために言葉を置こうとするとき、言葉を交わそうと努めるとき、それを人がしているのを見るときや自分のなかでの対話も含めて、それについて懸命に、誰かと懸命に橋を渡そうとするその行為によって。それを見たり耳にすることによって、なんとかもう一度、なだめる言葉が向こうからてこてこやってくる。それは呑気な足取りで、なんとなく眺めてると、呑気がやってくるよ。てこてこ。ぎふんぎふん。てこてこ。
posted by hamigoe at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記