2018年12月10日

2018年12月10日

12月もあっという間に10日過ぎ、今年があと21日で結びを迎える。
去年から今年は人間として深掘りすること、寄り添うこととはどういうことか、実践と試行の日々だった。日々、やるべきことを打ち返しているだけでは巡ってこない時間だった。生きることと生きててもらうことに精一杯になることで、生きることに精一杯な人、一生懸命真面目に仕事をして自分を育ててくれた両親のことも、一緒の時間を過ごす人々、すれ違う人々のこともまた身近に見えてきた。年始の父の怪我もあったし、親族の不幸もあって普段会わない親戚のみなさんとも会った。家族が被災した。色々な網目の関係性が色濃く、私の周りの網目のことを強く意識する日々。あえて見ないようにしてきたわけではないつもりだったけど、それでも見落としてきた蜘蛛の絲のような糸、意図。手繰り寄せたり掘り起こしたりがんじがらめになったり揺りかごになったり。深淵しか見えないような井戸も何度か覗き込んだ。身を乗り出しすぎて落ちてしまう恐怖、何も見えない不安、徒労感が相棒。それでも耐えてじっと目を凝らす。水が湧いてることに気づく。どんなに暗くても水が湧いてることに気づく。前向きや後ろ向きに味付けされることない、ただ湧いている事実が私を潤してくれる。直接飲まなくてもいい。ただ水が湧くという事実が、乾いた喉を潤す。想像の中で、私は満たされる。泣いてるから(かもしれない)。自浄するから生命は。蓄えた水分と養分でぐんぐん伸びる。加齢してるし、ぐんぐん感は当社比です。
今日は給料振込みの日。先月も来た球を打ち返し続けた成果。ごっつぁんです。
うるぁ、作品をつくるぞ、これからもっともっともっと!
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2018年09月05日

最近の出来事から学んだことについての覚書

仲間・友人・身近な方がハラスメントの当事者になった方へ。
誰が読むかわからないですし、誰の目にもとまらないかもしれないことをふまえてなお、自分の経験の整理と、覚え書きです。


なによりもまず、傷ついた方の手当てを。目の前にある命を守る、掬うためにできることを、できる限り。この時、できる限りということを忘れずに。必ずしも限界値まで頑張るという姿勢ではなく、無理しすぎない方のできる限り、が肝要だと思います。自分の健康を損なう前に手分けできるのが理想的です。いたわるのも案じるのも体力使います。
一人で人一人を支え切るなんて、簡単にできることではありません。そもそも人は、自分の重みも、重力も受けています。だから、なるべく早い段階で、ともに支える仲間や友人と連帯して、重みや、痛みを分担すること。それが関わる全ての人のセーフティーネットになります。それと、一人一人の距離感は違って当たり前なのだから、関わり方もこうでなければと決めつけなくてもいいことをいつも思い出すこと。直接支える人の後ろにそっと控える、いつでも私に声をかけてね、って言うことは確かな支えになります。ささやかな力が重なり、しなやかな網になるイメージは実体のない幻想ではありません。大したことできないから何もしない、より、ささやかな声や手が、沈んだ体や心が深い沼に落ちる前にひょっと掬います。

そしてハラスメントが起きる状況を繰り返しうまないために、誰にも繰り返させないために、自分に心しておきたいこと。

立場や役割、環境がある限り、上下関係、力関係は生じてしまいます。ハラスメントが起きやすい状況そのものは、いつでもあちこちで生まれるものです。比較的、公私を分けやすかったり、第三者の目が届きやすければ起こりにくいかもしれない。でも、そうじゃない場合もたくさんありますし、そこにいる全ての人が自覚的に避けない限り、権力・支配構造は、悪意も他意もなく起きています。
いざ進行役やリーダーシップを担う立場に立ってみると、講師や生徒、先輩後輩、上司部下、経験値の差、様々な立場や役割が関係性に影響することに気づきます。自分を見上げる相手から頼りにされたり、受け身だけではいられない立場に立たされたりもする。他者が自分に求める振る舞いを演じ続けなければならない立場に立たされたり、その振る舞いを身につけ実践することで相手を満足させてきた経験は、時に、しかも簡単に、危うい状況を作り出すことにも加担します。

自分も、加害、被害、両側に立つ可能性はいつでもある。だから、自分の振る舞いに自覚的になる必要が強くある。
とはいえ、例えば特定の関係性において弱い立場におかれても、親交を深めることそのものを臆するこたぁないとも思います。自分がやろうとすることを信じて、面白そうだと思う人には積極的に会ったらいいです。深く飛び込むことで得られる関係、その関係から生み出される充実した信頼や、その先の出来事、例えば仕事やアウトプットは、やはり飛び込んだからこそお互いに生みえたものでもあるはずだし。
その時に、自分は自分で守っていいのだという自尊感情を肌身離さず持つ。きっとそれは身なりを整えるようなことです。そしてそれがその人自身の、あるいは、その関係性における基調にもなりえるのだろうと思います。

自分は自分で守ることと同時に、例えば、経験が浅いから、女性だから、選ばれる立場だから、などなどの弱い立場に立たされやすい属性により、自分自身を弱者として扱い過ぎるのもまた間違った態度だと私は思います。
つまり、相手も、自分も、被害側にも加害側にも立たせないような配慮は、お互いに、誰しもに、必要なはずです。

ていうかさ、そもそも。
自分のために、自分以外の存在、尊厳、つまりは命を簡単に看過ごすような人を、自分は本当に信頼するんだろうか。もちろん誰しも、誰も彼も全ての命は救えない。そんなことできる人はいない。でもよ、ある程度の時間や経験を一緒に経た相手の状況を知ろうともせずあっさり切り捨てる、なかったことにする、軽視するってのは、本当に自分がしたいことなの? 私は違った。もちろん自分のこれからが大切、そりゃ間違いない。でも本当にそれだけが全て? 本当に? って思う。これは個人差あるので私がそうじゃないというだけ。だからこの一連は私にとっての心得、事実、というだけです。

本題に戻って、

性別年齢立場関係なく、自分を尊重する権利は、自分も相手ももっている。良い印象を与えるためにへりくだるのではなく、自分も含む、「個人」を尊重するために敬意を払うことに切り替えることです。

また、身近な人が当事者になった、あるいは、巻き込まれてしまった場合。
まずやれたらいいことは、傷の確認と、命の確認。その上で、「大丈夫?何があったの?」って当人に、穏やかに話を聞くこと。声をかけて、耳を傾けること。真実、事実は人の数だけある。相手がどうあれ、その人自身が受け取ったこと、内側に生じた気持ちや思いがその人にとっての事実。
だからそれを真摯にたずねる。同時に、起きたことを精確に知ろうとしてほしいです。身近な人の方に肩入れする気持ちは生じるものですが、それとは別の層で、同時に、そこで起きたことはなんだったのか、って見つめられる人が増えてほしいです。
それをふまえてなお、傷ついた当事者に寄り添ったり、支えたり、連帯したり戦ったりしたらいいのではないか。

偉い人が言うのだから、「被害」側が言うのだから、自分が信じてる人が言うのだから、たくさんの人がそう言うのだからって理由で、その人たちの発言をまるっと鵜呑みにしてはいけない。
当事者にしかわからないことを、そこにいなかった人が精確に知ろうとしないまま無責任に断罪してはいけない。その件に関して裁くのは自分ではないという境界を無闇に破ってはいけない。
でもその出来事に関して、できれば、自分にとっての真実は見つけたい。人の気持ちに寄り添いつつ、事実をごまかさずに精確に知ること、直視することが、その手掛かりになる。

悪いことが起きた。その当事者を排除すれば解決するということでは決してない。むしろ人と人の間でそういうことが起きるということ、それはどういった時に発動してしまうのか、という仕組みは考えられるはず。
私が生きる軸に置いている俳優の技術、また演劇を学ぶ、実践するということは、人間がどんな行動と生理で動いているか、状況はどう動き、変わるかについての知見を深めることでもあると私は理解しています。でもきっと、演劇や映画だけではなく、様々な学問や日々の学校、家庭、社会生活の中で、誰しも少しずつそういうことを学びながら、身につけながら日々、人と生きる知見を深めているはずなんです。

自分も他人も、友達も家族も仲間も先輩も恋人も先生も上司もこどもも大人も失敗する。でも学べる。繰り返さないため、周りに繰り返させないため、考えて、学ぶことをお互いの緩やかな責任としてもっていけたら、少しずつ、キツい人の重荷は軽くなっていくんじゃないか。ゆっくりとでも、少しずつでも、着実に。
私もまたここで書くことで、誰かに自分の経験と学びを分け合う可能性で、自分の荷物の整理が少しできます。読んでくださった方のおかげで、また軽くなりました。ありがとうございます。
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2018年06月21日

はらはら

ふと、ハラスメントって、降り積もった淋しさ、あるいは満たされなさ(こっちは直接的だな)に起因しているんだろうなと思う。だって誰だって触れ合いたいし、温められたいし、その欲は誰にでもあるし生まれる。日常的に我慢したり人との会話対話や遠慮がちな接触でそらしたりしても、降り積もる。それを特定の相手、安心感をもてる安全な相手に恒常的に求められない場合、対処のしようがない、ただ我慢するしかない、だと、個体それぞれに限界がやってきてしまってもおかしくない。

つまり、それらはその状況下におかれたら、誰しもに起きうることだと思う。客観的に見た自分への眼差しで自らの衝動を抑える、相手への敬意や友情に基づいて抑える、というのは理想的でそれを実行できる人ももちろんいる。それを目指したいとも思う。でも、人間の体は時に暴発する、というか、身体をコントロールしきれるかどうかには不確定要素が常にある、という実感もある。愛情ゆえの発露もある。激しく暴れなくても静かにだって暴れる。身体は未知というか宇宙的(青年団の演劇「日本文学盛衰史」を見て、原作も読んでる今、内面も宇宙的だと改めて思う)。総合体としての身体はシンプルな器官や機能の集まりであると同時に複雑怪奇な発展をしていくしろもので、心と体、別々のように認識してしまう時はあるけれど絡み合いまくり。精神や心理や感覚、認知もそうか、ていうかこの言葉の定義がもっと厳密でなきゃならないけれど、、密接で絡み合いまくりだ。

セクハラもパワハラも全ての事象をひとつの問題のようにまとめるのは暴力的な見方だと私は思う。
一つ一つ背景や状況が大きく異なるものから共通の課題を抽出したり、解決方法への知恵を探したりするのはごく自然な知的なプロセスだけれど、ただ、それとひとつひとつの事象として起きたことをそのものに触れたり扱ったりするのは違う行為だ。一つ一つ、一人一人を丁寧に精確に見ようともせずに、全てのことがまるでただの自分の外にある悪やゴミのように扱ったって何にもならない。ほんとに何にもならない。収集場じゃないところに誰かが勝手に捨てたゴミの集積に自分も食べクズや唾を吐き捨ててさらに汚してるだけ。マジでこれ。醜悪。この行為が散見されたときに私はものすごく腹が立った。腹が立って立ち尽くしたんだよ。だからって腹が立ったままじゃどこにもいけないから必死こいて考える。捨てるべきゴミとは何か。綺麗に磨く必要があるものは何か。そんでそれどうやって? その掃除の仕方。つまりそれは起きたことについても自分の考え方についても振る舞いについても自分以外のものへの働きかけについても。
権力志向や支配欲からの欲求や性的な欲求以外に「不適切な」状況下においてでさえ勝手に発生してしまう自由恋愛の部分を完全には否定できない。だからって、というかどんな理由に起因しようが、一方的に一人の人間が貶められてはいけない。潰されてはいけない。絶対にいけない。そんなことはどんな環境にあっても嫌だ。許したくない。

ただ、降り積もった淋しさの問題をどうするか。いくらでも触っていい相手、なんているのか。家族だからって常に許されているわけではない。愛玩を買って出る関係、文字どおり、サービスとしてプロの方の力を借りるのは一つあるだろうけど。本当に、セックスワーカーの方々の癒す力をすごいと思う。淋しさは誰かとつながるために仕組まれた本質的な機能、なのだろうか。切なすぎる。淋しさ。結論なんてでやしなけど、ここにきてずっと、淋しさのことを考え続けてる。
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2018年04月15日

近況報告

新年と新年度が始まってようやく一息つけた!
久々に近況報告書きました。読んでもらう用にデスマス調。

今年から映画美学校のつながりのおかげで、都立高校で市民講師として半年間週一コマの「演劇」の授業をする機会をもらいました。4月に今年の受講生とご挨拶をして、私のタームは10月からの下半期。

大学で川俣正さんの「アートレス」に出会って以来、私の活動範囲としての芸術はアウトリーチに向かってました。ちゃんとアウトリーチができるようになりたかったから、一人前の職能を身につけた芸術家にずっとなりたかった。圧倒的な芸術家には到底なれない。が、先にアウトリーチの機会が巡ってきたので飛びつきました。それでも、アシスタントではない単独現場は初めてで、自分の芸術で高校生とクリエイションできるんだ!ってのにぶるってます。
私なんかが先生ってのはほんとまあどうかと思うんですが、ミクロとマクロ、主観と客観を行き来する演劇・映画の通路を通って、お互いに解像度をぎゅんぎゅんあげることを全力で挑みます。これから出会う10代のひとびとが、少しでも、世界ってでかいなあとか明日が楽しみとか思ってもらえますように。あとはひとりひとりと友達になりたい。

もう一つ。昨年は、夏に数年続けてきた5歳児と演劇を作るワークショップ、秋に気心の知れた映画仲間たちと「River River」のPV、冬に「海に浮かぶ映画館」さんで自作自演の一人芝居を観てもらえて十分恵まれていましたが、その間はずーーーっと吹替制作の仕事に精を出しています。最近これが自分の仕事として定着してきました。

私は映画を見るときは字幕派です。吹き替えは元々の俳優の声を奪う残酷でクオリティが下がる行為と思っていたし、残念な座組みになると実際そうなんですが、一方、吹替版を作るプロセスはとても面白いです。
なぜかというと、よい吹替版を作ること=ひたすらその作品の声を聴く仕事だと気づいたから。この物語、このキャラクター、この俳優、このシーン、この断片、この音、この編集…は何を言ってるんだってのを素材から精確に聴き取るのが一番大事で、時間や予算と闘いながら、なるべくローカル(日本)の素材で適切に組み合わせて余すところなく伝える。だから本質は翻訳作業です。

昔、同年代の天才的な翻訳者さんと話していて「まあ翻訳なんて不可能だからねー」って彼も笑っていたけど、吹替だろうが字幕だろうがそもそも不可能なんです。でも誰もが原語で映画を味わい切れるわけでもなく、日本語版というフィルターをかけるにあたり、それがごく透明に近づくことがあるのも知りました。

そもそも字幕版は元の素材を邪魔しない率が高いです。限られた字数だとしてもオリジナルに文字を載せて意味内容を補完するだけだから、何かの要素を入れ替えるわけではありません。でも、まあ文字を読みながら画面を見ることには慣れがいるというか、映画のテンポに慣れないと全然追いつけなくて集中できない、といえばそう言える。
一方の吹替版は、画面を見つめていればよい。台詞も息遣いも、元の素材で置かれていたものは余すところなく再現しようとするので実はオリジナルの情報の再現率はすごく高いです。だけど、台詞と声というすごく肝要な要素が変わるので、つまり、台詞の翻訳と声優の再現度に大きな比重がかかるので、このパート次第で総合的な再現率がものすごく左右されるってのがその難しさです。

だから特に、演出含む制作サイドとしては実力のある声優さんと翻訳者さんをずーっと探してる状態です。どちらもオリジナルの声と演技にシンクロしながら日本語と自分の声で芝居をその場で生起させられるかが勝負で、このシンクロ率が非常に高いという意味のカメレオン声優みたいな方はやっぱりいるんです。

だから言いたいことがあって、
私の周りで演劇や映画に出演する俳優さんにも、仕事として、声優業への進出も視野に入れてもらえたら嬉しいなって思っています。私が親しい範囲は現代演劇や自主映画界隈の俳優さんたちですけれど、その界隈の方々はなかなか吹替の現場ではお目にかかれません。
本業に忙しいのだから、もちろんすごく素晴らしい。ただ、仕事として次の展開を考えている方がいて、海外の映画やドラマが好きだな、人の声を聴くのが好きだな、モノマネが好きだな、いろんな声を出したりするの好きだな、って感覚があれば声優業は試してみる価値はあります。

アニメはまた特殊に求められるものがあるんだけど、私が担当してる外国映画(外画)は、「声優」の嫌なイメージの方、変な癖のある喋り・声優っぽいと感じるようなペラッペラな作り声は淘汰されます。だからそれが嫌いだから興味無い、っていう心配ならいらないです。私たちもそれはいらないから。
マイク前は舞台やカメラ前に立つのとは違う技術が必要だけど、根本は、芝居心と演じる技術を持ち合わせているのが一番なので基本的に使う筋力は一緒です。当たり前だけど、100%ギャラもあります。演技とは違うジャンルのバイトや仕事で鍛えられるものもあるけど、演じる仕事の選択肢としては挑みがいはあるはず。あと、吹替業界は実力主義で、事務所の力学ってのがほぼ働かないのもいいところです。実際、実力のある売れっ子の声優さんや、持ち役の現地の俳優さんががつんと売れた声優さん(まあこれは運…)はどんどん独立します。

演技経験者であれば声だけ預かりの事務所もあるし、単発のワークショップでまず触れてみるとか、気合い入れて養成所に行ってみるとか。事務所も結構色々なのでキャリアに応じてやりようはあります。
私が吹替版の演出になったときに(まだ時間はかかるけどいずれ)、一緒に映画作ったり演劇作ったりしていた仲間と吹替版一緒に作れたらすげーいい仕上がりを目指せると思ってるので、マジでマジで。ここまで読んでる俳優仲間がいれば、選択肢としてぜひご検討あれ。

あとこれは単に面白いからのオススメで、制作担当した海外ドラマのNetflix限定配信中の「13の理由」は面白いのでNetflix加入の方はぜひ見てみてもらえたらいいな。いじめ、自殺と、友情がテーマ。原作からドラマの時間感覚でしか描けない発展のさせ方で、10代の揺れ動きをすごく丁寧に高いクオリティで描きこんだ傑作です。誰もに視点があり、ある物事にどちらから光をあてるかでどう見えるかということ、誤った行いが起きたとしてそこからどう僕らは変わっていけるか、ことをちゃんと描いている。高校生にも見てもらいたいけど大人ももちろん。

そんなわけでしばらく表に出ないクリエイションが中心ですが、引き続き自分の創作もやりまーす。映画館で映画を見る時間が激減してるのが悩み。映画館にいきたーい!
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2017年04月18日

ものへの憧れについて

起きた出来事、例えば、りんごが落ちた、とかそういう出来事=おそらく客観的事実(これがあるのか、つう議論もまたあるけれど)と言われるものと、それを人がどう捉えるか、ってのはまったく別の層の話。何かが起きた・起きない、という(おそらくは)たった一つの出来事に対して、解釈のバリエーションの自由さ豊饒さたるやたるや。

それ自体はただの事象であるものやことを、自分の物差しで塗り絵する、物語ろうとする、人は。自己肯定のためであれ、自己・他者の理解のためであれ、何かしらの意味をよみとろうとしたり、意味を渡そうとしたりするし、している、自分も。ただ起きたことに、それってどういうものなのか、ことなのかと説明しようとする。

私の物質に憧れる欲は、そういう特定の解釈・意味づけじゃなく、少なくとも自分の解釈で語るんではなく、物語られる事象そのものでありたいって欲なのかもしれない。意味づけをしようとすることから逃れたいとはずっと思ってきた。だって自分にも他人にも、自分なりの解釈を持つ自由は尊重したいしもちろん自分にもあると思うけど、それって本人にとっては独占的で唯我独尊でいいと思うけどさ、それとは無関係に、事象はそこにあるでしょう。みたいなこと。つまり、世界はそこにあるでしょう。誰かが、何かを思うより先に、圧倒的な事実として、それを捉える存在に先行してただそこに在るもの、という事実を信じてるんじゃないかと思う。同時に、考える存在、つまり、世界を見る人間がいるから目の前に世界は存在する、ともいえるしそれを信じてもいる。だからどっちも信じてるってことを、どっちも同じくらい愛しく思う。物質になりたいってのは、つまり、考える存在=世界を見る存在である自分が、世界の側に、有り体にいえば自然物として存在したい、ってこと。ヒトという固有の物質として、過不足のない世界の構成物としての存在、というものがあると仮定し、そういうものに、私はなりたい、と思ってる、思ってるんだなー。たぶん。でもこれって同時に、永遠に、そうなりたいと思い続ける側なんだろうなーとも予感している。ぐるぐる楽しく回る。
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2016年08月14日

夏の整理

誰でも、自分の声だけに、その時間だけは、自分の存在だけに全神経を傾けてくれる存在が必要なときがある。本当の声を、呼吸を、間を、震えを、そのまま、それとして/そこに存在するモノとして精確に受容しようと試みてくれる他者、その必要。でも誰にも強要できない。だってすごく大変だもの。自分の見方や意見を後退させて全神経を一つの対象に向ける、その後自分のもてる力をその対象が望む方向に向けて波紋を起こすことに専心するのって。本当になかなか起こらない。でもそれは起こる(し、いま書いてて自分でやりたいと思った)。演出家と俳優の関係でも訪れることがある、幸福な瞬間のような。本音を探る過程にも耳を澄ませてもらえる時間の確保は必要。
と同時に、他者の声に全神経で耳を傾ける存在になる時間も切に必要。こちらの目的は少し違って、純粋に自分をルーペにして声の深部、細部の襞に分け入ること。自分が別の声に没入することで行方不明になっていい時間をもつこと、と同時に行われる。水面下に潜る時間を水面の上に体を置いて行う、体は触媒として何かを反響し、広い、反映する(といいな、と信じながら行う)。この作業を私はテキストを読む行為において行っている自覚がある。これは俳優の作業や過程の一部分と重なる。だから俳優の作業や学びは大事で具体的で他者や自分の思考、作業の具体的な助けにも支えにもなった。だけど同時に、私の前提はごくプライベートな行為であって、かつそれを優先せざるをえないので、人前であるかどうか、人に見せるために形を整えていくかどうかは後退する。「職業俳優」に自分自身が必然性を感じないのはそのため(ただ、それを職業としている方には敬意を抱いています。経済的な成立に関わらず)。
その、他者の声に潜っていくごく個人的な作業の重要さは自分にとっては生存条件に近いくらいの価値。と、10年くらいの模索を経て現段階で理解している。個人的な重要さにフォーカスすると、それが行われるのが人前である必然性は後退する。なのだけど、この時、この作業や触媒となった水面の上のあらわれ(表れ/現れ)を見つめる他者がいることはまた幸運な作業の始まりでもある、ことも知っている。
私にとっては見つめることも、見つめられることもごく個人的に個体の愉悦を感じられる作業であることが優先される。その後、また第三者に向けた形にしていくかどうかの選択は別の過程。その選択をした場合の力量は未熟だけど、でもそれもまた個人的には重要な作業なのだな、こんな風に表に向けて書いているくらいなのだから。
これらの時間に潜水できるかどうかで、心身の平和が保たれるかどうかは左右される。

それを何でするか、誰とするか、というのは、自分で選ぶものなのかな? 徐々に定まるものだろうか。少なくとも目的や意識などを分け合える相手や環境にいると、集団としてある作品を提供する形に自然になる様子ではある。
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2016年07月02日

Important things

適切に配置されること。
風景の中にあること。
そこに音と声が聞こえてくること。
物語が訪れること。
ものは逸脱やブラックホールを内包すること。
かたりは時空を超える旅に誘うこと。

そして最後に、その場から立ち去ること。
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2016年06月16日

橋を渡して橋を渡って

少しずつ次の景色を見に向かっているのがわかる。考え方も、かっこいいと思うものも面白いと思うものも変わる。世界観や目的が変わるのではなくて方法が変わるのです。観せることを知ったからだなあ。その道を知ったからだ。道を拓く、丁寧に石を敷いていくような道の作り方を知ったからだ。観る喜びと観てもらえるように立ち居振る舞うことがわたしの中で橋がかかり、その空中で編み込んで景色の先を一緒に見ようとするような作業そのものが、橋渡しになることを体感できたからだなあ。音楽家の音により歌い手の声により、虹色の橋があなたからわたしへ、かかる瞬間を体感できたからだなあ。それに震えたからだ。誰にも読まれなくていいのだけど、自分だけのものとして置いておきたくないことは、誰に読まれてもいい場所に置いておこうと思いました。
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2015年10月15日

「捨て子たち、星たち」再演

かつてかいつか、もしかしたら結構今も。代替可能で/交換可能で/無名のものだからこそ、その声は継がれて不変になりうると信じていた。けれど今同時に、代替不可能性の中に宿る存在の神秘なればこそ、と思う。その声は、消えるからこそ。余韻と余波、気配やざわめきでしか受け取り得ない、聞き取り得ない存在の震え。

音楽詩劇研究所公演「捨て子たち、星たち」 シアターΧ
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2015年07月25日

かがみか

あ、そうか今ちょっとわかったかも。一人称ではどこか息苦しいわたし、みたいなのを抱えたあなた/彼/彼女へ、別の解釈を捧げる、みたいなことか。あ、これすごいな、モチベーションあがる。そうか、別の角度、別のところから見たらあなたそれだけじゃないでしょ、そうだよね? ってのを知りたいんだ、いつもいつもそれが知りたくて、それが見えると掬われるし、それを見せることで、掬えるのかもしれない、その人の、その人自身じゃ触れないわたしを。
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