2015年01月12日
となえる声
たまたま流れで「般若心経」の話が出たのでさっそく唱えはじめたら、原体験的な自分自身の音の愉悦に立ち返る。NHKの番組で玄侑宗久さんが解説されていたわたしから「私」がいなくなる時間、それすなわちただの容れ物の個体的人間、即物的なもの、でも空の観点からするとそれさえ無であるけれど、それでも、この即物的な容れ物に備わったある器官の震えにより、愉悦は発動されるのである。この震えから/により、わたしから「私」が消え、わたしのみになるのである、それは唱えることで起きること、そしてこれは、私が詩の通路に集う人々に初めて会った頃に自分の体がちゃんと見つけて自分の体がちゃんと握っている感覚で、だから、ああそうだよそうだよ、それとても大事、私にはそれはとても大事、と出会い直した。般若心経の教えに近いそれを、私は音読により知ったのだ、そうだそうだ、だから私は、その容れ物の使い道としてモノローグにひどく惹かれているのだった、そうだ、私の方法それです。それやればいいんだ、そうだそうだ。どこにいてもそれやればいいんだ。どこででも、それやればいいんだ。去年もとても、声、のことを喚起してくださる方もいて、私自身も強く想うときがあり、そうだよそうだよ、声だよ、音と声、それはどうしても、どうしようもなく、私の一大事。ああ、思い当たった、すっきりする。あとはひたすらやるのだ、それの周りに付随することも広がったのだ、去年のお陰で、そうだそうだ、領域は少しずつ広がっているのだ、真価はここから。