2015年02月28日

せにゃいちゃことはじめ

千夜一夜、証言(attest)、「墓は詩だ」、「全ての詩は碑文である」。ダルウィーシュが言う。ように。
かつて原さんとのお話の中で言ったけど、私は自分がプレイするということになんでか、祈りのプレイを絶対ふくみたい、それが私にとっては一大事、一番大きなことで、それは大げさなというよりはごくちいさなささやかな、ここに置かれた、ぼくに与えられたからだ、このたったひとつの、このぼくのからだ、が、歴史をはらむ唯一の、ここに置かれたぼくのからだが大きな流れと往還できる、唯一の方法のような気がする、という思い込みに依ります。そしてそれを私の「千夜一夜」物語にしたいのは、それを私の生き延びる方法としたい、という思い込みに依ります。日常の雑事に巻き込まれて流されて忘れて煩わされて気もそぞろで、それらはすべて愛すべきものであり、具体的な時間の全てです。その合間に、間に、宇宙的に行方不明になる方法、ブラックホールとヴォイドの作法を必要とするたったひとつの、たった一人との関係。ブロツキイも言うようにダルウィーシュも言う。「一篇の詩は詩人と読者の間の関係においてのみ存在する。わたしは自分の読者を必要とする」(『壁に描く』マフムード・ダルウィーシュ著、四方田犬彦氏翻訳、あとがき内に引用されたダルウィーシュ氏自身の文章より)。すべて、ひとつとひとつの関係においてのみ感じて受け取れる質感。それを私もやる、ということなんです。
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2015年02月27日

きんきょう

だらしなさとか不安との付き合い方はもうずっと続くものだということは少し脇に置いたとして、圧倒的にこの時期に必要な量が不足している事実があって、それをずっといつも知っていてなおその事実が続いているということは環境と習慣を適うものにかえる必要があって、かつ、その時には場所の確保と、同時に手伝ってくれる、一緒に付き合ってくれる人が必要であって、例えばそれを一発で叶えるのに一つにはお金を払って得たり、既に整ってあるものに参加したりするわけだけど、それもまた合理的であるし、私とかすぐそれでもいいんじゃん別にって安易に思うのだけど、楽してるんじゃないのと言われればそうだねと納得し、お金は無尽蔵にあるわけもなし、となれば限られた資源と状況で工夫をするより他なく、だからまずは可能性がありそうなお方にとって、良いな、嬉しいなって時間になるであろう提案を10も100も考えて1000行動するより他ない、他ない、とかなんかネガティブに響くけど、地道にそうしてきたのだよなあ、先人たちは…。すげえなあ。
posted by hamigoe at 19:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記