2016年08月14日

夏の整理

誰でも、自分の声だけに、その時間だけは、自分の存在だけに全神経を傾けてくれる存在が必要なときがある。本当の声を、呼吸を、間を、震えを、そのまま、それとして/そこに存在するモノとして精確に受容しようと試みてくれる他者、その必要。でも誰にも強要できない。だってすごく大変だもの。自分の見方や意見を後退させて全神経を一つの対象に向ける、その後自分のもてる力をその対象が望む方向に向けて波紋を起こすことに専心するのって。本当になかなか起こらない。でもそれは起こる(し、いま書いてて自分でやりたいと思った)。演出家と俳優の関係でも訪れることがある、幸福な瞬間のような。本音を探る過程にも耳を澄ませてもらえる時間の確保は必要。
と同時に、他者の声に全神経で耳を傾ける存在になる時間も切に必要。こちらの目的は少し違って、純粋に自分をルーペにして声の深部、細部の襞に分け入ること。自分が別の声に没入することで行方不明になっていい時間をもつこと、と同時に行われる。水面下に潜る時間を水面の上に体を置いて行う、体は触媒として何かを反響し、広い、反映する(といいな、と信じながら行う)。この作業を私はテキストを読む行為において行っている自覚がある。これは俳優の作業や過程の一部分と重なる。だから俳優の作業や学びは大事で具体的で他者や自分の思考、作業の具体的な助けにも支えにもなった。だけど同時に、私の前提はごくプライベートな行為であって、かつそれを優先せざるをえないので、人前であるかどうか、人に見せるために形を整えていくかどうかは後退する。「職業俳優」に自分自身が必然性を感じないのはそのため(ただ、それを職業としている方には敬意を抱いています。経済的な成立に関わらず)。
その、他者の声に潜っていくごく個人的な作業の重要さは自分にとっては生存条件に近いくらいの価値。と、10年くらいの模索を経て現段階で理解している。個人的な重要さにフォーカスすると、それが行われるのが人前である必然性は後退する。なのだけど、この時、この作業や触媒となった水面の上のあらわれ(表れ/現れ)を見つめる他者がいることはまた幸運な作業の始まりでもある、ことも知っている。
私にとっては見つめることも、見つめられることもごく個人的に個体の愉悦を感じられる作業であることが優先される。その後、また第三者に向けた形にしていくかどうかの選択は別の過程。その選択をした場合の力量は未熟だけど、でもそれもまた個人的には重要な作業なのだな、こんな風に表に向けて書いているくらいなのだから。
これらの時間に潜水できるかどうかで、心身の平和が保たれるかどうかは左右される。

それを何でするか、誰とするか、というのは、自分で選ぶものなのかな? 徐々に定まるものだろうか。少なくとも目的や意識などを分け合える相手や環境にいると、集団としてある作品を提供する形に自然になる様子ではある。
posted by hamigoe at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記