2017年04月18日

ものへの憧れについて

起きた出来事、例えば、りんごが落ちた、とかそういう出来事=おそらく客観的事実(これがあるのか、つう議論もまたあるけれど)と言われるものと、それを人がどう捉えるか、ってのはまったく別の層の話。何かが起きた・起きない、という(おそらくは)たった一つの出来事に対して、解釈のバリエーションの自由さ豊饒さたるやたるや。

それ自体はただの事象であるものやことを、自分の物差しで塗り絵する、物語ろうとする、人は。自己肯定のためであれ、自己・他者の理解のためであれ、何かしらの意味をよみとろうとしたり、意味を渡そうとしたりするし、している、自分も。ただ起きたことに、それってどういうものなのか、ことなのかと説明しようとする。

私の物質に憧れる欲は、そういう特定の解釈・意味づけじゃなく、少なくとも自分の解釈で語るんではなく、物語られる事象そのものでありたいって欲なのかもしれない。意味づけをしようとすることから逃れたいとはずっと思ってきた。だって自分にも他人にも、自分なりの解釈を持つ自由は尊重したいしもちろん自分にもあると思うけど、それって本人にとっては独占的で唯我独尊でいいと思うけどさ、それとは無関係に、事象はそこにあるでしょう。みたいなこと。つまり、世界はそこにあるでしょう。誰かが、何かを思うより先に、圧倒的な事実として、それを捉える存在に先行してただそこに在るもの、という事実を信じてるんじゃないかと思う。同時に、考える存在、つまり、世界を見る人間がいるから目の前に世界は存在する、ともいえるしそれを信じてもいる。だからどっちも信じてるってことを、どっちも同じくらい愛しく思う。物質になりたいってのは、つまり、考える存在=世界を見る存在である自分が、世界の側に、有り体にいえば自然物として存在したい、ってこと。ヒトという固有の物質として、過不足のない世界の構成物としての存在、というものがあると仮定し、そういうものに、私はなりたい、と思ってる、思ってるんだなー。たぶん。でもこれって同時に、永遠に、そうなりたいと思い続ける側なんだろうなーとも予感している。ぐるぐる楽しく回る。
posted by hamigoe at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記