ふと、ハラスメントって、降り積もった淋しさ、あるいは満たされなさ(こっちは直接的だな)に起因しているんだろうなと思う。だって誰だって触れ合いたいし、温められたいし、その欲は誰にでもあるし生まれる。日常的に我慢したり人との会話対話や遠慮がちな接触でそらしたりしても、降り積もる。それを特定の相手、安心感をもてる安全な相手に恒常的に求められない場合、対処のしようがない、ただ我慢するしかない、だと、個体それぞれに限界がやってきてしまってもおかしくない。
つまり、それらはその状況下におかれたら、誰しもに起きうることだと思う。客観的に見た自分への眼差しで自らの衝動を抑える、相手への敬意や友情に基づいて抑える、というのは理想的でそれを実行できる人ももちろんいる。それを目指したいとも思う。でも、人間の体は時に暴発する、というか、身体をコントロールしきれるかどうかには不確定要素が常にある、という実感もある。愛情ゆえの発露もある。激しく暴れなくても静かにだって暴れる。身体は未知というか宇宙的(青年団の演劇「日本文学盛衰史」を見て、原作も読んでる今、内面も宇宙的だと改めて思う)。総合体としての身体はシンプルな器官や機能の集まりであると同時に複雑怪奇な発展をしていくしろもので、心と体、別々のように認識してしまう時はあるけれど絡み合いまくり。精神や心理や感覚、認知もそうか、ていうかこの言葉の定義がもっと厳密でなきゃならないけれど、、密接で絡み合いまくりだ。
セクハラもパワハラも全ての事象をひとつの問題のようにまとめるのは暴力的な見方だと私は思う。
一つ一つ背景や状況が大きく異なるものから共通の課題を抽出したり、解決方法への知恵を探したりするのはごく自然な知的なプロセスだけれど、ただ、それとひとつひとつの事象として起きたことをそのものに触れたり扱ったりするのは違う行為だ。一つ一つ、一人一人を丁寧に精確に見ようともせずに、全てのことがまるでただの自分の外にある悪やゴミのように扱ったって何にもならない。ほんとに何にもならない。収集場じゃないところに誰かが勝手に捨てたゴミの集積に自分も食べクズや唾を吐き捨ててさらに汚してるだけ。マジでこれ。醜悪。この行為が散見されたときに私はものすごく腹が立った。腹が立って立ち尽くしたんだよ。だからって腹が立ったままじゃどこにもいけないから必死こいて考える。捨てるべきゴミとは何か。綺麗に磨く必要があるものは何か。そんでそれどうやって? その掃除の仕方。つまりそれは起きたことについても自分の考え方についても振る舞いについても自分以外のものへの働きかけについても。
権力志向や支配欲からの欲求や性的な欲求以外に「不適切な」状況下においてでさえ勝手に発生してしまう自由恋愛の部分を完全には否定できない。だからって、というかどんな理由に起因しようが、一方的に一人の人間が貶められてはいけない。潰されてはいけない。絶対にいけない。そんなことはどんな環境にあっても嫌だ。許したくない。
ただ、降り積もった淋しさの問題をどうするか。いくらでも触っていい相手、なんているのか。家族だからって常に許されているわけではない。愛玩を買って出る関係、文字どおり、サービスとしてプロの方の力を借りるのは一つあるだろうけど。本当に、セックスワーカーの方々の癒す力をすごいと思う。淋しさは誰かとつながるために仕組まれた本質的な機能、なのだろうか。切なすぎる。淋しさ。結論なんてでやしなけど、ここにきてずっと、淋しさのことを考え続けてる。