仲間・友人・身近な方がハラスメントの当事者になった方へ。
誰が読むかわからないですし、誰の目にもとまらないかもしれないことをふまえてなお、自分の経験の整理と、覚え書きです。
なによりもまず、傷ついた方の手当てを。目の前にある命を守る、掬うためにできることを、できる限り。この時、できる限りということを忘れずに。必ずしも限界値まで頑張るという姿勢ではなく、無理しすぎない方のできる限り、が肝要だと思います。自分の健康を損なう前に手分けできるのが理想的です。いたわるのも案じるのも体力使います。
一人で人一人を支え切るなんて、簡単にできることではありません。そもそも人は、自分の重みも、重力も受けています。だから、なるべく早い段階で、ともに支える仲間や友人と連帯して、重みや、痛みを分担すること。それが関わる全ての人のセーフティーネットになります。それと、一人一人の距離感は違って当たり前なのだから、関わり方もこうでなければと決めつけなくてもいいことをいつも思い出すこと。直接支える人の後ろにそっと控える、いつでも私に声をかけてね、って言うことは確かな支えになります。ささやかな力が重なり、しなやかな網になるイメージは実体のない幻想ではありません。大したことできないから何もしない、より、ささやかな声や手が、沈んだ体や心が深い沼に落ちる前にひょっと掬います。
そしてハラスメントが起きる状況を繰り返しうまないために、誰にも繰り返させないために、自分に心しておきたいこと。
立場や役割、環境がある限り、上下関係、力関係は生じてしまいます。ハラスメントが起きやすい状況そのものは、いつでもあちこちで生まれるものです。比較的、公私を分けやすかったり、第三者の目が届きやすければ起こりにくいかもしれない。でも、そうじゃない場合もたくさんありますし、そこにいる全ての人が自覚的に避けない限り、権力・支配構造は、悪意も他意もなく起きています。
いざ進行役やリーダーシップを担う立場に立ってみると、講師や生徒、先輩後輩、上司部下、経験値の差、様々な立場や役割が関係性に影響することに気づきます。自分を見上げる相手から頼りにされたり、受け身だけではいられない立場に立たされたりもする。他者が自分に求める振る舞いを演じ続けなければならない立場に立たされたり、その振る舞いを身につけ実践することで相手を満足させてきた経験は、時に、しかも簡単に、危うい状況を作り出すことにも加担します。
自分も、加害、被害、両側に立つ可能性はいつでもある。だから、自分の振る舞いに自覚的になる必要が強くある。
とはいえ、例えば特定の関係性において弱い立場におかれても、親交を深めることそのものを臆するこたぁないとも思います。自分がやろうとすることを信じて、面白そうだと思う人には積極的に会ったらいいです。深く飛び込むことで得られる関係、その関係から生み出される充実した信頼や、その先の出来事、例えば仕事やアウトプットは、やはり飛び込んだからこそお互いに生みえたものでもあるはずだし。
その時に、自分は自分で守っていいのだという自尊感情を肌身離さず持つ。きっとそれは身なりを整えるようなことです。そしてそれがその人自身の、あるいは、その関係性における基調にもなりえるのだろうと思います。
自分は自分で守ることと同時に、例えば、経験が浅いから、女性だから、選ばれる立場だから、などなどの弱い立場に立たされやすい属性により、自分自身を弱者として扱い過ぎるのもまた間違った態度だと私は思います。
つまり、相手も、自分も、被害側にも加害側にも立たせないような配慮は、お互いに、誰しもに、必要なはずです。
ていうかさ、そもそも。
自分のために、自分以外の存在、尊厳、つまりは命を簡単に看過ごすような人を、自分は本当に信頼するんだろうか。もちろん誰しも、誰も彼も全ての命は救えない。そんなことできる人はいない。でもよ、ある程度の時間や経験を一緒に経た相手の状況を知ろうともせずあっさり切り捨てる、なかったことにする、軽視するってのは、本当に自分がしたいことなの? 私は違った。もちろん自分のこれからが大切、そりゃ間違いない。でも本当にそれだけが全て? 本当に? って思う。これは個人差あるので私がそうじゃないというだけ。だからこの一連は私にとっての心得、事実、というだけです。
本題に戻って、
性別年齢立場関係なく、自分を尊重する権利は、自分も相手ももっている。良い印象を与えるためにへりくだるのではなく、自分も含む、「個人」を尊重するために敬意を払うことに切り替えることです。
また、身近な人が当事者になった、あるいは、巻き込まれてしまった場合。
まずやれたらいいことは、傷の確認と、命の確認。その上で、「大丈夫?何があったの?」って当人に、穏やかに話を聞くこと。声をかけて、耳を傾けること。真実、事実は人の数だけある。相手がどうあれ、その人自身が受け取ったこと、内側に生じた気持ちや思いがその人にとっての事実。
だからそれを真摯にたずねる。同時に、起きたことを精確に知ろうとしてほしいです。身近な人の方に肩入れする気持ちは生じるものですが、それとは別の層で、同時に、そこで起きたことはなんだったのか、って見つめられる人が増えてほしいです。
それをふまえてなお、傷ついた当事者に寄り添ったり、支えたり、連帯したり戦ったりしたらいいのではないか。
偉い人が言うのだから、「被害」側が言うのだから、自分が信じてる人が言うのだから、たくさんの人がそう言うのだからって理由で、その人たちの発言をまるっと鵜呑みにしてはいけない。
当事者にしかわからないことを、そこにいなかった人が精確に知ろうとしないまま無責任に断罪してはいけない。その件に関して裁くのは自分ではないという境界を無闇に破ってはいけない。
でもその出来事に関して、できれば、自分にとっての真実は見つけたい。人の気持ちに寄り添いつつ、事実をごまかさずに精確に知ること、直視することが、その手掛かりになる。
悪いことが起きた。その当事者を排除すれば解決するということでは決してない。むしろ人と人の間でそういうことが起きるということ、それはどういった時に発動してしまうのか、という仕組みは考えられるはず。
私が生きる軸に置いている俳優の技術、また演劇を学ぶ、実践するということは、人間がどんな行動と生理で動いているか、状況はどう動き、変わるかについての知見を深めることでもあると私は理解しています。でもきっと、演劇や映画だけではなく、様々な学問や日々の学校、家庭、社会生活の中で、誰しも少しずつそういうことを学びながら、身につけながら日々、人と生きる知見を深めているはずなんです。
自分も他人も、友達も家族も仲間も先輩も恋人も先生も上司もこどもも大人も失敗する。でも学べる。繰り返さないため、周りに繰り返させないため、考えて、学ぶことをお互いの緩やかな責任としてもっていけたら、少しずつ、キツい人の重荷は軽くなっていくんじゃないか。ゆっくりとでも、少しずつでも、着実に。
私もまたここで書くことで、誰かに自分の経験と学びを分け合う可能性で、自分の荷物の整理が少しできます。読んでくださった方のおかげで、また軽くなりました。ありがとうございます。