私たちは、ふりをするだけ。
彼女たちの何かを伝えようなんておこがましいと思う。
ただなんでか憧れがある。なんでだろうとよく考えてみるけど理由は一つではない。即物的で、多面性と複雑さがそのまま見えること。生身で生きていること。自分はどこか間接的だという自覚をずっと抱えてる気がする。それに比べて彼女/たちは、自分の体で受け止めて、闘って、触れている。生身だから傷もできる。笑う。泣く。立つ。寝る。佇む。見えない場所に追いやられてる。見えないことにされている。代弁なんかしない、できないから。
私たちは、ふりしかできない。
ただ見て、うつして、
彼女/たちが見ていたはずの景色と同じ風景を眼球は見つめている、と思う、おそらくは。かろうじて。
徹底的に身体的な、存在感のある存在であるにも関わらず、(であるからこそ、でもあるのかもしれないですが)制度的に不可視の場所に置かれている。いやちょっと待て、いるよいるじゃないって言いたい気にもなるし、それゆえに見たいと欲望する憧れの対象にもなってるのかもしれない。
代わりに何かをできるとは思わない、代わることなんてできない。けど、存在すること、その存在を認識することのために、自分が使えるならば、役に立てるのかもしれないと思う。
なんで役に立ちたいと思うんだろう。関わら/れ、ないのに、彼女/たちの側に立ちたいと思うんだろう。立てないのに。自分の場所にしか、いられないのに。
今日も、過去のカイエ・デュ・シネマのデプレシャンの文章を思い出して3回読んだ。いつでも読めるようにメールの下書きに入れてる。
このひと月、彼女と一緒にいる感覚が、ふりから反映される彼女の指先などが自分の右手にあることが私をとても嬉しくしている。こういう風に一緒にいられることがあるんだ。振りを通して、からだに。
彼女の像、イメージがうつったら。
世界はここにあった、ね、と言いたい。会ったこともない、会うこともない彼女と。