2014年11月27日

いったりきたり

人と人の間にあるものについての仮定とその根拠を集めている。その周辺をうろついている。

その人といるとき、居場所があると感じる。
その人といる時間が、わたしの居場所になる。
その人といる限り、
自分が、楽でいられる。
自分が、わたし自身でいられる。

その人と一緒にいる時間の限り。
その人といる限り。
から、
その人が同じ時間/現在にいる限り。
へのスライド、もしくはジャンプはできるのかしら。

物体として近くになくても、その物体が、地球上の、あるいはロマンチックにいえば、同じ空の下にいるなあと思えば、同じ月を見ることができる場所にいるなあと思えれば、場所は、私の場所は、この世界にあるなあ、だからたぶん大丈夫だなと思えたりするのかな。
物理的に、一緒にいなくても。
「居場所」を自分側でポータブルできるのかな、ということ。

ちなみにこれ、相手の数だけたくさんつくれる、のかな。
この人と会ったらいつでもわたしでいられる、という「場所」をつくることは、わたしが素直に置かれてるなあ、だはーっていう実感さえあればいつでも実現できている、ということなのか。
この人といるときのわたし、あの人といるときのわたし、その人といるときのわたし、どれもわたしのある側面で、どのわたしも楽でいられる、のならば。
あ、でも主眼は、そういう相手をたくさんつくりたい、とかではなく、それはその人それぞれのもてる数というか、居場所の欲しさの数やら繋がれる数やらで決まるのかもしれず、与り知れない範囲です。

戻って、その「居場所」が自分の側でポータブルできるとして、つまりそれって、橋を自分でもってる、みたいな感じなのかしら?
その人と会える時にはその橋をかける。よいっしょっと。したらば行き来できるわけだ。行き来の時間、わたしはあなたの居場所になり、あなたは私の居場所になる。間と、橋をいったりきたり。その往還こそが居場所。往還がらくらくちんにできる、という実感、かな、大事なのは。

それをつくる必要条件は、案外相手、ではなく、わたしをわたしが持っている限り、になるのかな。
依拠する先を、自分に向けたら、依存ではなくなる?
人間は依存する、のだろうけれど。それでも、自分へ依拠したら。いくら中身がマグマでも、依存はライトな、さらさらーっとした、ぎゅー、すぱー、さらー、ありがとー、じゃー、みたいな、星砂、みたいな軽やかさ。おかげでまた自分に依拠できるわー、ありがとー、みたいな、そんな感じになれるのかな。なりたいのかな。からっからの、骨の散り散りになった破片みたいなね。星砂、燃え尽きた後の骨に少し似ているよな、似てないよな。

ああでも、圧倒的に、そばにいること、触れることのありがたみってのがあるのも知っている。身体はだって置かれている。肉はここにごろんと。質量も熱量も欲望も煩悩もあるわいな。
ぎゅむぎゅむの肉の塊が、さらーっと星砂を掴む、ぎゃしーっと砂を握った手応えの後、指の隙間からしゃらしゃら落ちていく、手には少ししかくっつかないの。にゃむー
posted by hamigoe at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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