千夜一夜、証言(attest)、「墓は詩だ」、「全ての詩は碑文である」。ダルウィーシュが言う。ように。
かつて原さんとのお話の中で言ったけど、私は自分がプレイするということになんでか、祈りのプレイを絶対ふくみたい、それが私にとっては一大事、一番大きなことで、それは大げさなというよりはごくちいさなささやかな、ここに置かれた、ぼくに与えられたからだ、このたったひとつの、このぼくのからだ、が、歴史をはらむ唯一の、ここに置かれたぼくのからだが大きな流れと往還できる、唯一の方法のような気がする、という思い込みに依ります。そしてそれを私の「千夜一夜」物語にしたいのは、それを私の生き延びる方法としたい、という思い込みに依ります。日常の雑事に巻き込まれて流されて忘れて煩わされて気もそぞろで、それらはすべて愛すべきものであり、具体的な時間の全てです。その合間に、間に、宇宙的に行方不明になる方法、ブラックホールとヴォイドの作法を必要とするたったひとつの、たった一人との関係。ブロツキイも言うようにダルウィーシュも言う。「一篇の詩は詩人と読者の間の関係においてのみ存在する。わたしは自分の読者を必要とする」(『壁に描く』マフムード・ダルウィーシュ著、四方田犬彦氏翻訳、あとがき内に引用されたダルウィーシュ氏自身の文章より)。すべて、ひとつとひとつの関係においてのみ感じて受け取れる質感。それを私もやる、ということなんです。
2015年02月28日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/114410215
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/114410215
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック