2018年12月17日

2017/12/30のノート

演劇だからより努めてこういう態度をとる、ということを語る人に対して自分はこう考える、という言説を私は今はもっていない。
だけど、仮に「被害者」側が自覚的にせよ無自覚にせよ、自分から積極的にしなだれた場合、コミュニケーションにおいて「恋愛関係に繋がるもの」が成立しかけることはあるだろうとごく個人的には思う。
「事実」を明るみに出すことで、「被害者」の「社会的信頼度が守られない」ならば、そもそもそういう行為及びそれにつながる行為自体をすべて制限し排除しておくしか、現時点で取りうる対応方法はないんじゃないかとさえ思う。だからみんなこれから恋愛禁止です。恋愛、というかあらゆる他者と関係する欲を煽ることにつながりうるすべての行為を、家庭内以外のすべてにおいて禁止します、みたいな。自覚的な振る舞いは、すべて禁止されます。無自覚な振る舞いも、それらが起きてしまったならば、すべて罰則規定があります。だったらまずは性風俗もエロ漫画もAVもすべて罰則規定に当てはまって禁止されるな。コスプレも露出も水着も幼児も、それにより煽られることがありうるから、不特定多数の前に現れることは禁止。ああもしかして、ヒジャブで隠されるというのはこういうことでもあるのか。みんな社会的に閉じこもれ。あるいは、拘束服で自分の身をしばれ…これは思考的な持ち物としては、まあ現在も有効だな、ていうか、これを着るしか自分の身を守る道がないな。
いまの大きな方向性は、それこそ無自覚的であれ、すべて禁止するしか次善策がとりようがない方向に向かってるように思えてきた。「演劇関係者」だから「演劇関係者」は当事者を罰することをしていいのか? 自由恋愛は成立してはならないのか? 自由恋愛につながりかねないものは、すべて遠ざけるよりほかないのか? あるいは、なんとかうまいことかいくぐって秘密に秘密を重ねて、ほとぼりが冷めるまでひたすら秘匿されながら、ロミオとジュリエットのように燃え上がるべきことなのか、そして「ロミオ」も「ジュリエット」も悲劇を辿るのか? ああ、でもこうやって考えてきてようやく、仕事において恋愛禁止って規則を設けるところの理由が体感的につかめてきたな。

男女の生物的な力の差や、立場における権力や地位等の社会的な力の差、あるいは思考力等々の知的・経験的な力の差があったから結果的に強制や暴力的な関係性に変化してしまうということはある。その中で起きたことについて、誰かが傷ついたのであれば、それはそれを与えた側が出来る限りケアしてほしいという願いはもっている。でも起きてしまったそれは、イコールハラスメントなのだろうか? その行為が起きた時に問われるべきは、「意図的にそれを利用したかどうか」という動機だけだと弱いし、「加害」側が意図的であろうとなかろうと、「被害」側が傷つくことはある。繰り返しだけど、それは誰にもコントロールできずに起きてしまうことがあるものだと生きてきて経験してきた。そんでそれが当事者間で放置されうるってことも。傷ができてしまったのだから、そうなったこと自体は当事者同士の二人の関係において変化をもたらしうると思う。ただそれって、二人の関係においてのみ、まずは起きることで、それって、第三者が狭い視野から覗いた時に踏み荒らすことが許された場所なのだろうか? その時にその場所を踏み荒す行為を「結果的に」してしまっている人たちは、「加害者」は踏み荒らしてもよくて、「被害者」は徹底的に守るべき、って倫理観なのだろうか。え、ちょっとちょっと、それって全然公平じゃないんじゃんって思うのは私だけ? 自分は安全な場所にいて踏み荒す行為をとることで「加害者」へ加害する振る舞いを自らよしとするって、なんかすごく。なんていうか、その倫理観は、その人にとっての、よりよい振る舞いなんだろうか? あなたのそれは何に対する被害者意識からの発露? 何への怒り? 義憤? ていうかそれは「被害者」の傷を守るため?
ていうか、第三者が加わった時点で加害と被害が逆転しうる可能性について、ていうか、そもそも本当に「加害」と「被害」なのかって問われてもいいようなことである可能性について、想像されないのはなんでかしら?
例えば自由恋愛においては、振った人は加害で、振られた人は被害なのかしら。でもって、振られた人が振った人に牙を向いた場合、それは傷ついた人の当然の権利として守られるべき行為なのかしら? 誰でも、自由に発言する権利はある(と思いたい)。だとしても、誰でも、こういう条件さえあれば、その人を貶めることを言っていいって権利なんて与えられているのだろうか? いやいや、それは本当にあるの? とここで、自分の行為を振り返るでしょう。私も自分の言ったことやったことで相手を傷つけてきたこと相当ある。相当謝りたい人がたくさんいる。でもそれが、叶わない人もいる。許すかどうかは相手の範疇だから何も言えないし言う権利はない。だから私はただ自分のこれからの振る舞いを改めて、これからは、誰かを傷つけないように行動する。傷つけてしまったらすぐに謝り、傷を労わるためのできる限りの振る舞いをとる。

誰もが過去の自分の行いから報いを受ける必要があるとは思わないが、そういうことはある。「加害者」は今、自分の過去の行いから、「罰」を受けて反省し、改める道を探ってると想像する。だとすれば、「被害者」も自分の行いがなんだったのかを明るみに出し、自らの今後を改める道を探ることもできるんじゃないか? そうやってようやく、この起きたことが、もう少し当事者だけではない場所に現れる。そうなってから、ようやく広い視野で見られる場所に置かれる。目にした人にとって、事実を、自分を省みる機会になる。つまり、そこまでいってようやく、他者が/に対して働きかけられる範囲に現れるんじゃないか。おそらくそれで初めて、当事者以外の人も含み、お互いや、自分以外の存在についての理解や機知も得る道にもつながるんじゃなかろうか。

そうするべき、とは書かない。だって振る舞いは、誰かに強制されるべきものではない。それにこれらはすべて、あくまでも私の、ごく個人的な想像だから。誰かが誰かの振る舞いを規定して強制しうるなんて、そっちの方が圧倒的に恐ろしい。ただ、よりよい人間であろうとするかどうか、において。どうするのがよりよい存在になることなのかを考えて実行していくのが、常に、どんなことにおいても、当事者だからこそできることなんじゃないか。
それにしても、というか、翻って、というか。こういう、こうしてほしい、とかの個人的な願望も、決して明るみに出してはいけないことになっていくんだろうな…。すべては秘される。さらに、すべては、「誰でもない誰かの基準において」、もっとうまくできる人しか実行できない「権利」みたいになっていくんだろうな。恋愛も結婚も表現も、ていうか仕事も生活も? えー窒息するっていうか、私すでに生きていけないや…。
私的なものが明るい場所からいなくなっていく。そして私的な場所でしか物事は起きなくなっていく。公は、清潔で明るい問題の起きない場所になる。誰もが転ばないように努めるのは、公の場所に関わる人たちの仕事として大事な要素だと思う。ただ、それでも転んでしまった人に対してどうするか。ここで、公園をいつも見守る「森のクマさん」という人(具体的に想像したいから、仮においてるだけね)がいると想像してみる。クマさんは、誰かが転んで怪我をしないように森を綺麗にしようとする。小枝を拾い、道を少しずつ整備して、くつろげるベンチをつくるかもしれない。そこにはいろいろな人が立ち寄り、すれ違い、とどまっておしゃべりなんかをするとする。(そこでロマンチックな出来事もあるかもしれない!)クマさんが整備した公園で、あるとき誰かが転んでしまったとする。クマさんは猛ダッシュで駆け寄り、まずは転んだ人に大丈夫ですか?と声をかけて抱き上げ、顔を覗き込む。本人や、周りにいた人が怪我をしていないか確認をして、怪我があれば必要な保護とケアをする。治るまで優しく見守って、またきてね、って言うだろう。クマさんはまた、その人が転んでしまった原因も探すだろう。クマさんは、理由をまず知ろうとする。そこでうーんと考える。次にようやく、今後のために必要な対策を練って実行する。その人も、そうじゃない人も、またいつでも来られるように。クマさん、素敵やん。まあ他の人(クマ)のことについては何も言えない。私はそうしよう。
posted by hamigoe at 12:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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