文化は文化の言葉で語らなければならない。
ただ、文化が語るとき、文化に閉じこもって(引きこもって)語るのでは少し足りない。
それは声が小さいからではない。
その声が、他者に向かっていないからだ。
独り言の体であったとしても
それは外へ向けられた言葉であってほしい。
そうしないと、他者の耳には響かない。
(耳を澄ませたとたん鼓膜が破けそうな爆音以外は/であったとしても。)
私は文化を応援したい。
傲慢な言い方なのは承知の上、でもそれが本心だ。
コンテンツを消費したいんじゃない。
媚を売ってほしいんじゃない、稚拙に振舞ってほしいんじゃない。
耳障りよく、オブラートに包んでほしいんじゃない。
貴賤も、優劣もない。
(そんなことは本質的なことじゃない。)
他者に向けて話してほしい。
真摯なその声が、聴きたいんだ。
2009年11月07日
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女もガマン出来ね〜んだな(笑)
Excerpt: おいらの立ったアレ見るなり勝手にいぢりだして終いにはパイズリでイかされた(笑) コース変更で上乗せ金もしっかりもらえたからいいんだけどなw
Weblog: 商社マン(37歳)
Tracked: 2009-11-10 14:36
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女もガマン出来ね〜んだな(笑)
Excerpt: おいらの立ったアレ見るなり勝手にいぢりだして終いにはパイズリでイかされた(笑) コース変更で上乗せ金もしっかりもらえたからいいんだけどなw
Weblog: 商社マン(37歳)
Tracked: 2009-11-10 14:36
発する声に誰かに伝えようとする意志が込められている言葉であり、聴き手と文化の関係を意識して発信される言葉のことなのでしょうか。
コメントありがとうございます。
おっしゃっていること、まさにその通りだと思います。
この記事は、もう少し個人的な感想も含まれています(全部個人的なのですが)。
うまく書けそうにありませんが誤解を恐れず書いてみると、
演劇の中にいる人(愛好者)に対してのみ話されているかのような言葉、そうした演劇(愛好者)の中でのみ受容され再生産されるような作品は、外にいる私(他者)には響いてこないな、と思ったのです。
この投稿の元の作品は、作品としての魅力がある舞台だと思いました。
pokoさんのおっしゃる、誰かに伝えようとする意志は込められている言葉だろうと思います。
でも私は、直接関係を築くような出会い方ができなくて…。
これはまた別の態度になりますが、私はそこで耳を塞げてしまうな、と思ったのです。
ただ、もちろん聴きに行った私のコンディション/受容力の問題もあると思いますので、他の方の劇評を楽しみに待っている今日この頃です。
いま、ここで、目の前にいる他者に対して開き、敬意をはらうということ。誰に対しても、どんなときでもできたらいいなと思いながら、自分は人や場を選んでいるところがまだまだだなぁと思っています。
レスありがとうございます。
真摯なお言葉に感じ入りました。
ここ2週間ばかり大岡信さんの『百人一首』(講談社文庫)を読んでいましたが、あとがきに「うたげと孤心」について書かれていました。
「うたげ」に留まりつつ、それでもなお「孤心」を自覚し、「「孤心」に還らざるを得ない宿命に忠実に生きた人々のみが瞠目すべき作品」を作った、と。
私はついあたまで、そして好みで「うたげ」を批判する癖がありますが、その中に居てそこから言うことでできることはありますよね。
強いてバランスをとるでもなく、いつのまにか両立してしまう瞬間、限りなく普遍性に近づく瞬間、
をつい夢に見てしまいます。