2014年03月09日

処方箋を自分に出す

例えば、誰かに今自分がほんとのところどう思っているかを知ってほしい、という欲を、誰にどのように伝えればいいかって、伝わってしまうかって、自制できる部分とそうではない部分があるよな。

傷ついてその場にいる私を、私自身が(どんなに頑張って限界まで堪えたって)無視できないことの方がほとんどであって、それはたまに涙とか声とかで言葉とかボディランゲージとかで溢れて表層に出てきてしまったりもして。一人でいるときに堪えられないのはまだマシで、臨界点付近になるとやっぱその字義通り、周囲や外側に何が置かれているかに関わらず、内側の境界がなくなる状態に変化しうるのです。

かといってじゃあ知ったあなたから何か言葉が欲しいかって言うと、何を言われてもそんなもんはく○くらえ、と心底思って、蹴散らしてさんざん踏んづけてやりたくなるのも目に見えている。だから、誰にも彼にもそれを知ってほしくてたまらない欲をもつときに求めるあなたへの態度としては、私がそれを堪えた上でここいることをただ知って、それを汲み取った上であなたにもそこにいてほしい、ということなのかもしれない、と。

でも同時に、そんな風に、知ってほしいんだよこのやろうって言うことって子どもっぽいのかもしれないとか、言わないで堪えて堪えて踏みとどまる方が大人として、仕事人としてかっこいいんじゃないか、とかもまあ同時にうまれてくる。それに、堪えて踏みとどまってそこに居続けることをできた結果を、きっとそのプロセス込みで誰かが誉めてくれるはずだ、その気持ちをいつか未来に掬いとってくれる人が、かつての私の通り過ぎた気持ちを遡って想像して寄り添ってくれる人がいるはずだって願望でぎりぎり保つ方が、なんとかかんとかかっこよさにつながるんじゃないかって。
それを美学と呼んでいいのか、理性と呼んでいいのか。それはただの報われない辛抱なのか、わからないけど。

きっと多くの人は、こういう臨界点のぎりぎりを、不特定多数の人には見せずに、ごく身近な人にだけ打ち明けるか、たまたま立ち会ってしまった人に図らずもぶつけてしまうか、誰にも明かさずに閉じ込めようとして失敗するか、うまくやり過ごして血中に溶かすか、とかなんとかするのかなあと思う。
なるべくなら、こういう極私的な臨界点のあれこれを、たとえば技術でとんてんかんてんして、ああ、何か美しい実として結実できるように、私はなりたい。

ああでもやはり、いまここで透明になっていく私を、私は。
posted by hamigoe at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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