2015年07月25日

かがみか

あ、そうか今ちょっとわかったかも。一人称ではどこか息苦しいわたし、みたいなのを抱えたあなた/彼/彼女へ、別の解釈を捧げる、みたいなことか。あ、これすごいな、モチベーションあがる。そうか、別の角度、別のところから見たらあなたそれだけじゃないでしょ、そうだよね? ってのを知りたいんだ、いつもいつもそれが知りたくて、それが見えると掬われるし、それを見せることで、掬えるのかもしれない、その人の、その人自身じゃ触れないわたしを。
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2015年06月14日

公私混同はなはだ

昨日、コツコツ二人で続けてる稽古の前に相方の女優さんと話していて、何かを作るときの公私混同の大事さに二人ですごい納得した。どこに/誰に向かうかはものすごい大事、けどそれ以上に、個人的な差し迫ったものに何よりもぐっときちゃう。ってその感覚が共通だったという話。誰しもに当てはまる公式ではないと思われるし、含まれる割合も、バランスもサマザマ。聖俗のたとえもよくあるけれど、公の中に私が見えることもある、その逆も、少し角度を変えた言い方で耳にもする。
あと、やっぱり見せ方や伝え方、というところにすごくこだわって頑張って、ってことの大事さを毎日いたるところで思う。どうやったら面白くなるかってこと。自分が面白いことを面白いと思ってもらえるか、ってこと。ただそれだけ。
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2015年05月30日

ぎふんとてこいれ

その対象との距離がどうかってこと以上に、ただただ、ある存在に対してどうしてここまで失礼になれるのか、尊厳を持てないのかってことにはらわたが煮えくり返る。年に何回もないことだけど、血が沸騰するぐらい。沸騰すると蒸発すんだよな。かっとなってやっちゃいました、ってのわかるよ。考える余地なんてもてないよ、衝動だもんね。ほとんどの原因は人が人に対するときの無礼さ。ようは仁義。いきなり初めて会う人にそれやるのかよ、お前。まあやるんだよなお前は、ってことでもあるんだけど。このくだらなさが本当にくだらなくてそのことのために、大事で丁寧なことが簡単に消えるんだよなあ。はあ。ぎふんぎふん。でも、その塊をね、なんとか自分と切り離して、切り離すために言葉を置こうとするとき、言葉を交わそうと努めるとき、それを人がしているのを見るときや自分のなかでの対話も含めて、それについて懸命に、誰かと懸命に橋を渡そうとするその行為によって。それを見たり耳にすることによって、なんとかもう一度、なだめる言葉が向こうからてこてこやってくる。それは呑気な足取りで、なんとなく眺めてると、呑気がやってくるよ。てこてこ。ぎふんぎふん。てこてこ。
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2015年03月18日

この時期は処方箋

課題を前進させたうえで、ようやく次のステップとして、選ぶことに進める。何かを遠ざけるだけだとまたその障壁はやってくる。逃げても同じ壁はやってくるよ、というのは確かになーと思うんだけど、それでも、何回か逃げてもいいんじゃないかな。というのは、たぶん目の前にどーんとぶつかる壁の質感も高さも、状況を経て変化するから。壁そのものは同じだとしても、受け手である人の方は日々変化している。状況もその人自身も前に同じ壁が現れた時とは違うから、乗り越え方は見つかる可能性が広がるように思う。

人は勝手に物事を解釈する。良くも悪くも。人にできることは、対象/出来事に対して力を加える/働きかけることと、それを自在に解釈をすることだ。それで、対象と受け手(出会い手)との関係や間にある距離、見え方、接し方を変えることができ、もしかしたら多少は対象そのものも影響を受け、踊ってくれるのかもしれない。それを見てまた諳んじる、その繰り返し。
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2015年02月28日

せにゃいちゃことはじめ

千夜一夜、証言(attest)、「墓は詩だ」、「全ての詩は碑文である」。ダルウィーシュが言う。ように。
かつて原さんとのお話の中で言ったけど、私は自分がプレイするということになんでか、祈りのプレイを絶対ふくみたい、それが私にとっては一大事、一番大きなことで、それは大げさなというよりはごくちいさなささやかな、ここに置かれた、ぼくに与えられたからだ、このたったひとつの、このぼくのからだ、が、歴史をはらむ唯一の、ここに置かれたぼくのからだが大きな流れと往還できる、唯一の方法のような気がする、という思い込みに依ります。そしてそれを私の「千夜一夜」物語にしたいのは、それを私の生き延びる方法としたい、という思い込みに依ります。日常の雑事に巻き込まれて流されて忘れて煩わされて気もそぞろで、それらはすべて愛すべきものであり、具体的な時間の全てです。その合間に、間に、宇宙的に行方不明になる方法、ブラックホールとヴォイドの作法を必要とするたったひとつの、たった一人との関係。ブロツキイも言うようにダルウィーシュも言う。「一篇の詩は詩人と読者の間の関係においてのみ存在する。わたしは自分の読者を必要とする」(『壁に描く』マフムード・ダルウィーシュ著、四方田犬彦氏翻訳、あとがき内に引用されたダルウィーシュ氏自身の文章より)。すべて、ひとつとひとつの関係においてのみ感じて受け取れる質感。それを私もやる、ということなんです。
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2015年02月27日

きんきょう

だらしなさとか不安との付き合い方はもうずっと続くものだということは少し脇に置いたとして、圧倒的にこの時期に必要な量が不足している事実があって、それをずっといつも知っていてなおその事実が続いているということは環境と習慣を適うものにかえる必要があって、かつ、その時には場所の確保と、同時に手伝ってくれる、一緒に付き合ってくれる人が必要であって、例えばそれを一発で叶えるのに一つにはお金を払って得たり、既に整ってあるものに参加したりするわけだけど、それもまた合理的であるし、私とかすぐそれでもいいんじゃん別にって安易に思うのだけど、楽してるんじゃないのと言われればそうだねと納得し、お金は無尽蔵にあるわけもなし、となれば限られた資源と状況で工夫をするより他なく、だからまずは可能性がありそうなお方にとって、良いな、嬉しいなって時間になるであろう提案を10も100も考えて1000行動するより他ない、他ない、とかなんかネガティブに響くけど、地道にそうしてきたのだよなあ、先人たちは…。すげえなあ。
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2015年01月12日

となえる声

たまたま流れで「般若心経」の話が出たのでさっそく唱えはじめたら、原体験的な自分自身の音の愉悦に立ち返る。NHKの番組で玄侑宗久さんが解説されていたわたしから「私」がいなくなる時間、それすなわちただの容れ物の個体的人間、即物的なもの、でも空の観点からするとそれさえ無であるけれど、それでも、この即物的な容れ物に備わったある器官の震えにより、愉悦は発動されるのである。この震えから/により、わたしから「私」が消え、わたしのみになるのである、それは唱えることで起きること、そしてこれは、私が詩の通路に集う人々に初めて会った頃に自分の体がちゃんと見つけて自分の体がちゃんと握っている感覚で、だから、ああそうだよそうだよ、それとても大事、私にはそれはとても大事、と出会い直した。般若心経の教えに近いそれを、私は音読により知ったのだ、そうだそうだ、だから私は、その容れ物の使い道としてモノローグにひどく惹かれているのだった、そうだ、私の方法それです。それやればいいんだ、そうだそうだ。どこにいてもそれやればいいんだ。どこででも、それやればいいんだ。去年もとても、声、のことを喚起してくださる方もいて、私自身も強く想うときがあり、そうだよそうだよ、声だよ、音と声、それはどうしても、どうしようもなく、私の一大事。ああ、思い当たった、すっきりする。あとはひたすらやるのだ、それの周りに付随することも広がったのだ、去年のお陰で、そうだそうだ、領域は少しずつ広がっているのだ、真価はここから。
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2014年12月26日

かんぺいさーん

何もわからないけど体も心もひらいて無垢に寄り添うことと、何が起きているか理解できて近づこうともするけれど最終的には突き放す(絶対的にそうせざるを得ない)こと、これってどちらかを選ぶことなんてできるのかな。自分もだけど、相手も。どっちにも振り切れないわたしがいるのはわかる。でもむしろこの二つは現れのある時点をただ指し示したに過ぎなくて、どの程度想像しようとしたりと思いやりをもちまたそれらを発揮できるか、の方に相手は反応するような気もするなー。もっというとそうしようとしてる姿が見えるだけでキュンとしちゃうとかもあるかもなー。
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2014年12月05日

忍認

つい先日フィルメックスで幸運にも見ることができた蔡 明亮(ツァイ・ミンリャン)監督の『西遊』のようなことを全然違う方法でやるようなこと。共通点を明確にとりださなくちゃ。

あーもう、身体でわかっていることが、なんで他の人に伝わりやすい言葉で言語化できないんだろう。そのための技術と心意気と根気がもっといる。頭の言葉と身体の言葉が全く別言語でしゃべりあってるのが超わかってんだけど、うっかり一つの身体の中ではがっちり握手とかできるからまあいいやとかすぐゆるしてんだな。道のりとおいわ。ぐぐぐぐぐぐぐぇ。そこの回路をもう少し調節できるようにしたい、そうだ、むしろそれだ。と、どのボタン押せばどうなる、みたいな身体の扱い方をもっと知ること、と、調整できることを調整して、しなくていいことは野放しにしても帰って来れる体力と操作性を身につけること、つまりは楽器を磨くこと、弾く練習をすること、この楽器が何を言ってるか、弾く人としてなるべく素直に伸ばしてあげるような扱い方をすること。また比喩みたいになってるけど、そうやってパートナー的に一つの身体を扱うことなんだよなーって、それを実践することなんだよなーってこと。そういうもの、でもあり、そういうこと、でもある、それが同時に、あるいは、そちらとこちらを行き来する、その往還、この言葉マイブームなのです、往還。何の稽古するか、扱い方をもっと知ること、扱われるものの術を伸ばすこと拡げること、実例に応じて、ということとか。これを具体的にした上で、実行して、続けること。

つって、今年起きたことを繋げようとして焦りすぎて急ぎすぎていた。むしろ次々と河岸を替えるのではなくて、そんなインスタントなことではなくて、もらった種がちゃんと根付くように肥料や水をいい感じに与え続けることこそが自分へも、手渡してくれた人へも、その次を待っているかいつか会える人への責任だと思う。責任は重いしこう扱うこともまた重いけれど、あくまでも前向きな、むしろ背中押してくれるし手も引いてもらえたみたいな明るい心持ちでいる。で、それをどこでどうやるか、ってことなんだけど。にんにん。
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2014年11月27日

いったりきたり

人と人の間にあるものについての仮定とその根拠を集めている。その周辺をうろついている。

その人といるとき、居場所があると感じる。
その人といる時間が、わたしの居場所になる。
その人といる限り、
自分が、楽でいられる。
自分が、わたし自身でいられる。

その人と一緒にいる時間の限り。
その人といる限り。
から、
その人が同じ時間/現在にいる限り。
へのスライド、もしくはジャンプはできるのかしら。

物体として近くになくても、その物体が、地球上の、あるいはロマンチックにいえば、同じ空の下にいるなあと思えば、同じ月を見ることができる場所にいるなあと思えれば、場所は、私の場所は、この世界にあるなあ、だからたぶん大丈夫だなと思えたりするのかな。
物理的に、一緒にいなくても。
「居場所」を自分側でポータブルできるのかな、ということ。

ちなみにこれ、相手の数だけたくさんつくれる、のかな。
この人と会ったらいつでもわたしでいられる、という「場所」をつくることは、わたしが素直に置かれてるなあ、だはーっていう実感さえあればいつでも実現できている、ということなのか。
この人といるときのわたし、あの人といるときのわたし、その人といるときのわたし、どれもわたしのある側面で、どのわたしも楽でいられる、のならば。
あ、でも主眼は、そういう相手をたくさんつくりたい、とかではなく、それはその人それぞれのもてる数というか、居場所の欲しさの数やら繋がれる数やらで決まるのかもしれず、与り知れない範囲です。

戻って、その「居場所」が自分の側でポータブルできるとして、つまりそれって、橋を自分でもってる、みたいな感じなのかしら?
その人と会える時にはその橋をかける。よいっしょっと。したらば行き来できるわけだ。行き来の時間、わたしはあなたの居場所になり、あなたは私の居場所になる。間と、橋をいったりきたり。その往還こそが居場所。往還がらくらくちんにできる、という実感、かな、大事なのは。

それをつくる必要条件は、案外相手、ではなく、わたしをわたしが持っている限り、になるのかな。
依拠する先を、自分に向けたら、依存ではなくなる?
人間は依存する、のだろうけれど。それでも、自分へ依拠したら。いくら中身がマグマでも、依存はライトな、さらさらーっとした、ぎゅー、すぱー、さらー、ありがとー、じゃー、みたいな、星砂、みたいな軽やかさ。おかげでまた自分に依拠できるわー、ありがとー、みたいな、そんな感じになれるのかな。なりたいのかな。からっからの、骨の散り散りになった破片みたいなね。星砂、燃え尽きた後の骨に少し似ているよな、似てないよな。

ああでも、圧倒的に、そばにいること、触れることのありがたみってのがあるのも知っている。身体はだって置かれている。肉はここにごろんと。質量も熱量も欲望も煩悩もあるわいな。
ぎゅむぎゅむの肉の塊が、さらーっと星砂を掴む、ぎゃしーっと砂を握った手応えの後、指の隙間からしゃらしゃら落ちていく、手には少ししかくっつかないの。にゃむー
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2014年11月12日

鳥餌

無言であれ、なんであれ、話しかけるのが好きだっただけだな。なのになんでか、どうしても、声をかけがたい人もいる。それしか取り柄がないのに、それを取り上げてしまったらますます何もない。困ったなぁ。
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2014年11月09日

優しい手の話、その1

つい今週のことです。一つの場所が結びの時間を迎え、もう少し長いスパンで長い距離を走り続けている時間が、離陸前のいよいよ大詰めの時間帯を迎えています。映画ではいくつかのタームがあって、それぞれに大詰めやな、という時間帯があるのですね。そのうち、今は撮影期間中とは違う大詰め感で、どちらかというと地味にこたえる(答える/堪える/応える)タイプの時間帯。大詰めとはいえ、すべてがstuffedされたところで素晴らしい大空に飛び立てることが約束されているわけではない。大詰めって何よ、と別の場所であった人につっこまれてうーん、確かに何だろうこの大詰め感、とか思いもするし、夜中に2、3人で延々走ったり撮り直したり頭抱えたり困った顔したり苛立ったりハイ/灰になったり、沢山の人の役に立つようなすごくいいことだけをやってるわけじゃないし、これまでどこか、特権的な優越感を抱いていたこと、そのかっこわるさも首をしめる。精神的な体力的な底を見ることは毎日ではないけど、この密度なら忙殺ってありえるかも、でもまだギリいけるか自分よとか身体とこっそり会話したり、1番いいたくない時間帯で1番いいたくない相手にキツいと表明してしまったり(それは大事なんだけどやっぱり苦しい、でも修復)、有り体に言えば、色々な軋轢や葛藤が細かく細かく頻発してきたし、今もしている。
でも、ちゃんと寝ればあっさりと回復する。多少バランスやチューニングが乱れても起きれる。体力ついてきたのかもしれない。
昨日Eテレの『漫勉』で、漫画家さんたちの精緻な手つきや迷いや葛藤するペン先が面白くて見入った。作業する手は美しい。柔らかくて優しい。いま作っている映画の、円の中心にいる方のみならず、それぞれに関わる一人一人の生々しさや疲れた顔、それでも集まったりできることをできるだけ、と差し出されるその手の優しさよ。この優しさは、質とは直結しないとしてもだよ、存在感そのものになっていくんだよ。何度も何度でも、これに掬われている。最近、本当に優しい手ばかりに会う。きっと手の本人はそんなことないよ、って言う人ばかりだけど、いやいや、知ってるんですよ。そうじゃない手もいっぱいあるし。私宗教家かもしれないけど、毎日感謝してばかり。ありがとうございます。
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2014年10月10日

ねえねえ、わたし、ここにいる

8月から開催中の「黄金町バザール2014」特別企画「演劇パビリオン」に参加しています。
の、上演のお知らせです。まずはだだっと見てみてね。

「日常の上演」 http://tcf-project.net/838/
演劇パビリオン http://tcf-project.net/pavilion/
演劇センターF  http://tcf-project.net

7月の頭に初めてお会いして一緒にやれることになって、8月2日から通い始めました。それからあっという間に2ヶ月半。少なくとも週に1,2回、黄金町に行っています。10月はもっとたくさん行っている。
黄金町と東京には距離があって、いくつか電車を乗り継いで、最後は赤い電車に乗っていく。行くたびに変化があって、いつもそこにいられない私にはタイムラグが起きて、私は、私がそこにいなかった時間を想像する。いない間に流れた時間を想像する。

たくさんの時間が集まる場所で、この場所にはこの場所の時間が流れている。その中を人が行き交い、立ち寄り、腰掛けてはまた立ち去っていく。そのさまを、私は見ている。お茶を出したり、お話をしたりしながら、複数の時間が行き交う地点に立っている。たくさんの人やものの、かつてと、いまの時間が私の中に流れ込んでくる。ここにいると、よく見て、聞いて、待っていることができるから、もしかしたら、誰かにいつか、の時間を手渡せるのかもしれません。この体がここに置かれている限り。


私は時間を見るのが好きで、とにかくそれが一番好きで、だから、こういう風にいろんな時間がよく見えて、感じられて、っていう中にどぶんと浸かっていられる時間がまたうれしくていとしくてたまらない。ほんとにたまらない。

10年くらい前に強く憧れた演劇があって、でもどうしてもそこにはいられなくて、だから私にとって演劇は、どうしてもそこにいられない場所になっていた。それからしばらく「演劇」を遠くから眺めるようになりました、でたぶん7年くらいかなあ。演劇をよく知っている演劇が仕事ではない人や、映画や音楽をつくる人と一緒に時間をすごして何かの時間を作って、映画や演技や芝居、アート、パフォーマンス、などなどに少しずつ近づいたりしていたけれど、それでも演劇だけはどうしても中にいられなくて、やっぱり眺めていた。

そんな私でもね、演劇の渦中にいられる場所があった、というか、いたいようにいさせてくれる場所をもらえたのです。いただいたと思う。だからこの出会いは本当に大きくて、私にとっては本当にギフトなんです。演劇との邂逅です。ここから何を返せるのかなあ、ギフト。いつか/かつてのわたし/あなたに。ほんの少しでも手渡せますように。

日にちや内容も追加でお知らせできることが今後増える予定です。ので、また告知しちゃうもんね。
黄金町バザールも、演劇パビリオンも、とても豊かだよ。ぜひ足を運んでみてくださいね。黄金町で待ってます。
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2014年09月17日

毎日同じことを言っている

知りたい、教えてくださいあなたのことを
全部知りたい、知っていたい隣人として
あなたが何者かを知りたい
「尊敬し、尊敬されること」?
「信頼できること」?
何の欲が強いのかわかった
知りたい、もっと知りたい
わたしのことを伝えることよりも、
あなたのことを知ることの方が
わたしにとってはとても大切
とてもとても大切
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2014年09月07日

たとえば、の続き

子を生さずとも、二人の間に生まれたものを、育てているではないか、

彼女は、それを殺すのではなく、生かしたいと思うのです
生まれた瞬間につぶれてしまうものだっているけれど
ひとりでにそだっていくものだってあるけれど
ちょっと目を離してばらばらになったあげくに、また落ち合えもして
添え木を傍に置くことで、水をあげて、丁寧に話しかけることで、
そっと守ることで、
花を咲かせて実や種を、繰り返し、遺してつながるその先を
生すことだってできるんやないの。
どんな風に触れば、どんな風に交わせば
うむことができる、育むことができる、
わたしとあなたで、彼と彼女で
親みたいになれるかもしれないじゃんか
ねえ、そうやない、そうやないの?
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2014年08月16日

べけっとべけっと

ああもう、ベケットやばい!
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2014年08月13日

埃が降り積もることについて

赤ちゃんが生まれたばかりの家庭に遊びに行く。地に足をつけて本当に真面目に、誠実に着実に蓄積する暮らしを築いている目の当たりにすると、いかに普段形のないものにかかずらわっているかということに直面する。少しの卑屈さとむなしさが、こっち側にある。つくづく自分なんてろくでもないと思う。蓄積しないもの、なくなってしまうもの、消えていくもの、もともとないもの、そういうものにばかり囚われる。形のあるものを着実に蓄積していく樣は眩しいよ。つくづく、色んなものや人にすみませんって思う。ろくでもなくてすみませんって思う。穀潰しですみません。ろくでもねえや。でもね、うつろう人は、うつろう人なりの美しい時間とともにいるよ。そういうとびきりの生命を、知っているよ。街角にたたずむあなたを、知っているよ。私は知っているよ。あなたを映すよ。私が、あなたを映すよ。私はあなたを、あなたがここにいたことを、いた時間を、その跡を、終わりを、続きを、その先を、正確に。できる限り精確に。トレースする。トレースしたい、させてほしいんだよ。
こんな人々に。あなたにも、私にも、彼にも彼女にも、一様に、「時の埃は降り積もる」(『エレニの帰郷』/アンゲロプロス)。雪も。身体に。時間に。その街に。降り積もる。降り積もる。融けていく。消えていく。
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2014年08月03日

うらめし家

こんなん書いてるの無駄だ、こんなの書いてる時間あったら映画を一本、といわず二本、三本見れるんじゃないかほんとこんちくしょう
映画の時間にあわせられない拘束時間がうらめしい、どこかを楽しようとするとやっぱりこういうことになる、ただただうらめしい
不義理だ不義理だ不義理だ、けど
自分の仕事とやらをちゃんとしなくては
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2014年07月15日

宇宙的の中にいることをめぐる話

昨日の某JEL撮影の合間や後に諸々話していてあれこれヒントになる話がたくさんあったんだけれど、なんであんな演劇やこんな演劇を見て、素直に面白いと思えないんだろうかという長年寄せては返す自分への疑問について、他の方法を選んでいる芸術家の一つの回答で納得。そうなんです、きっと私もそれに憧れてるんです、というもののそれをめぐる話に興味津々。http://www.cinra.net/interview/201407-me?page=4

あと、逃走、というのもなるほどにゃむ。勝手にまとわされる「意味」からの逃走とか。それをまとわされやすいことで植え付けられた反抗の精神とか。いくつか、それでもそれでしか有り得ないなあと思える世界に落ちていた言葉が、「意味」を逃れてそこにぽとんと落とされる時。それを間において、舞台から拡声器で宣言を続けながらvoidを見つめる猫さんがイントレの間に立っていたときの「存在」感(PortB『雲。家。』初演ですね)とか、宇宙的なブラックボックスでアンパン食ってた内田さんとかの「物体」感とか(たぶん2006年頃の地点『Jericho』ですね)とか。Zero Degrees の、二人のシンクロニシティと、アイデンティティの揺らぎと人間という「物体」が、この宇宙にあることとか。やたらめったら記憶を引っ張り出して混ぜ返す。思い出す。
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2014年07月14日

めもめも

記憶は体の外にある。相手との間に、誰かの中にしかない。私の外に、記憶が残る。私と彼との間に。私が、私だけでもっていると信じる存在は、不確かだ。誰も証明することはできない。何かを証明することなど、誰にもできない。証明するには、証明を、信じる人が必要だ。だけど、信じる人が証明の材料に足ると、誰が証明できるというのか。結局、信じることは、信じる人以外にとって、存在の証明にはならない。強い意思が引き継がれることはある。そうやって、歴史は続いてきた。これはレトリックではないけれど、ただの言葉遊びだ。ただのお喋り。もしかするとベケットさん的な、唯一残された、人間のそれ。けれど、ふがいなく、頼りない存在を確かめるには、私の言葉を聞く人が要る。なぜなら「存在感」は私と貴方の間にしか、生まれないから。存在を自分で持っていることはできる。けれどそれは信じることができるということに過ぎないから。貴方が変わったということでしか、私がそこにいたことを証明するものはないから。その時だけ、おそらく確かに、世界はあったんだから。
必要なのは、善意や善良さではなく、正確に知ってもらうこと。知った上で、そこにいてほしい。私の前で、私を見て欲しい。そして、ようやく、私はもっと見たいと欲する。欲することができる。
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