2014年07月13日

ヴォイド

その人、その場所、その時間のヴォイドはどこにあるか。
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2014年07月08日

回路全開

もっすごいちゃんと見つめられて見つめるうちに、距離が消失する感覚が訪れる。少し精度をあげて言い直すと、距離感が測れなくなる時間、というか。
相手の変化で自分の存在を知ることができるときのこと。
デプレシャンの映画でかっちょよく語られたそのときのこと、ぎゅんぎゅん変化する距離感の体感とともにまざまざと思い返した昨晩。
からの、カフェやばい。病院にいる一人一人やばい。人の存在感の、なんつーか立体感たるややばい。そこにいる人々の情報量はんぱない。そこにいる人々、いまここに人がいるってことが、とにかくとにかくやばい。

いかに日頃見てないか、見られてないかってことでもあるが、そんな反省はどうでもいーや、とにかく見るってすげえ。
見ることと見られることで動きだすことってすげえよ。
関わるってすげえ。存在の存在感たるや。あ、あ、これ映画だ、映画をやらなきゃ。映画をやらなきゃだよ。
でもってその前に、わたしはこの感覚、ろくでもなく頼りもないこの消えて失っていく感覚を、なるべく多くの時間もってたい。というか、もってないことになりたくない。自己演出か。やってみる。
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2014年07月05日

秋が鳴る

迷って、悩んで、震える言葉。
何も持っていない人、持つ事を想像しなかった人、欲しがらなかった人、自分以外のことにだけ全身を使い果たした人、あるいはその途上にある人。
欲しがる事に気付かなかった、あるいは気付かないように仕向けていた人が気付いたときの、欲しがる事に葛藤するときのこと。
消尽と、蕩尽は、この人に訪れるのだろうか。そのままであれば訪れたかもしれないものが、いっときの寄り道で、訪れなくなるのだろうか。それでもやはり寄り道が終われば。時が過ぎてしまって、忘れられずに、けれど忘れられてしまったら、やっぱり訪れるのだろうか。その時に訪れる時間は、拷問なんだろうか、甘美なんだろうか。何か単語には置き換えられない、ただよう時間の最中。そこに置かれた時、その人は。目は、手は? 指先は。内側の、あるいは外側の、先端は。
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2014年06月22日

さいかい

5,6年くらい前でしょうか、おしえてもらった私の一片。落ちていて、拾ってもらった石。なぜか親戚のように思ってしまうその人は、これ、君ももっていたらいいね、って手渡してくれた。
消尽にも蕩尽にも至らぬそのずっとずっと手前で足を止めもう随分長いこと、川の流れをみている今。
マンデリシュタームの『石』の一つにあった、私の一片。呟くと直接、中からも外からも直接、細胞に、脳幹に、点滴のようにゆっくりと。一滴、二滴。落ちては髄にまじっていきます。点滴袋を詰め替えて、詰め替えて。何度も。何度でも。
きっと、誰にでもそういう一片があるよなと思ったのは、茨木のり子展であまりにたくさんの人が熱心に、穴のあくようにその言葉を、見つめていたから。
出会ってくれる言葉があるよ。見つめさせてくれる言葉はあるよ。見つめてくれる言葉があるよ。見つけてくれる言葉があるよ、私を、渡す言葉があるよ。確かにあるよ、あったんだよ、そのことの驚きと喜びだよ。
さて、もう一度。

ぼくにあたえられた体、このたったひとつの。
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2014年05月09日

せつなるせつな

嘘を本当に仕立て上げようとする。それが本当であるか、というかというよりも、本当だと信じられるかどうか。本当とは、信じられるかどうか。描かれる人間の姿は、その人物がどのように生きるか、何を選ぶか、のデフォルメというか縮尺というか端的にそれをぎゅっと圧縮して抽出された言動。
現実に生きていたことの実証。実際に、貴方居たんですよね、ということの一つの解釈を通じた、再現の試み。再現の欲というのは、なぞるというよりも、もう一度、お願いだからそこにいてください、まるでさわれるもののように、そこにいてください、というもしかしたら刹那を裏切るような、切なる願いのもとに、なんとか生まれさせようとする、透明で形のない亡霊のようなものを、受肉させるような、なんとかそこにもう一度、出現させるような。憑依したってなんだっていいから、と言いたくなるような。お願いします、いたんですよね、あなた、立体的な人間として、いてくれたんですよね、本当に、いてくれたんですよね?
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2014年05月04日

よくよく

どう考えても共感を求める自分がいて、同時に理解できない完全なる他者との出会いを求める自分もいて、それは一つの中にありえるのだろうか、というか、ありえない事などありえない。のだ、というかくしんをもって、これの、この人の、このいのちのぶっとんだところはどこだろう、という探り。気付かないうちに浸透する共感を経て、一体化したかのようにいたのに、うわ、まじかお前裏切るのか、というほどのひっぺがしが一つの中にあるときの快哉。誰しも、何しも、絶対に理解しえない、理解できない、孤独が、ブラックホールだかダークマターだか、宇宙的な何かが必ずある。ということが、生命の、孤高の、輝きの、尊さの、自尊にも他を尊ぶこともできることになるのではないか、と根っこと幹の、どちらの始まりにもなる胚芽、というかでんぷん、みたいなものをねちょねちょぐちぐち、さなぎの中身のように、今。
あと、日本的「私感(わたくしかん)」と呼べるような、超主観、みたいなものがすげえ気になる気になる。努めて学んでわけいりたい、欲。
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2014年03月09日

処方箋を自分に出す

例えば、誰かに今自分がほんとのところどう思っているかを知ってほしい、という欲を、誰にどのように伝えればいいかって、伝わってしまうかって、自制できる部分とそうではない部分があるよな。

傷ついてその場にいる私を、私自身が(どんなに頑張って限界まで堪えたって)無視できないことの方がほとんどであって、それはたまに涙とか声とかで言葉とかボディランゲージとかで溢れて表層に出てきてしまったりもして。一人でいるときに堪えられないのはまだマシで、臨界点付近になるとやっぱその字義通り、周囲や外側に何が置かれているかに関わらず、内側の境界がなくなる状態に変化しうるのです。

かといってじゃあ知ったあなたから何か言葉が欲しいかって言うと、何を言われてもそんなもんはく○くらえ、と心底思って、蹴散らしてさんざん踏んづけてやりたくなるのも目に見えている。だから、誰にも彼にもそれを知ってほしくてたまらない欲をもつときに求めるあなたへの態度としては、私がそれを堪えた上でここいることをただ知って、それを汲み取った上であなたにもそこにいてほしい、ということなのかもしれない、と。

でも同時に、そんな風に、知ってほしいんだよこのやろうって言うことって子どもっぽいのかもしれないとか、言わないで堪えて堪えて踏みとどまる方が大人として、仕事人としてかっこいいんじゃないか、とかもまあ同時にうまれてくる。それに、堪えて踏みとどまってそこに居続けることをできた結果を、きっとそのプロセス込みで誰かが誉めてくれるはずだ、その気持ちをいつか未来に掬いとってくれる人が、かつての私の通り過ぎた気持ちを遡って想像して寄り添ってくれる人がいるはずだって願望でぎりぎり保つ方が、なんとかかんとかかっこよさにつながるんじゃないかって。
それを美学と呼んでいいのか、理性と呼んでいいのか。それはただの報われない辛抱なのか、わからないけど。

きっと多くの人は、こういう臨界点のぎりぎりを、不特定多数の人には見せずに、ごく身近な人にだけ打ち明けるか、たまたま立ち会ってしまった人に図らずもぶつけてしまうか、誰にも明かさずに閉じ込めようとして失敗するか、うまくやり過ごして血中に溶かすか、とかなんとかするのかなあと思う。
なるべくなら、こういう極私的な臨界点のあれこれを、たとえば技術でとんてんかんてんして、ああ、何か美しい実として結実できるように、私はなりたい。

ああでもやはり、いまここで透明になっていく私を、私は。
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2014年03月01日

手癖発動中

アウグストザンダーの写真を見るとものすごくいいなあというのとこれがやりたいんだよなあって思うんですけど、俳優として主体的にその実体でいてやろうとするってことよりも、それを見たいって欲の方が強いなあと今見て思う。俳優ならば、こういう風にいてやろう、それにはどうしてやろうとまず考えたいところなのだけど、すなおにやーこれは素敵だ、すごいなあ、存在って奴は、と思ってしまう方が自分を閉める割合はおおい。
というのと、この写真に映された人を俳優が主体的に目指したとしてそれって100%可能なのか。特定の先輩俳優を思い浮かべると、ああできる人いるなーたぶん99%肉薄しそうな人いるなーと思うのだけど、それってでもそこには一枚「俳優」という像がやっぱりあるのではなかろうか。つまり俳優自身の像とある人/役の重なり、あるいは自分自身と、描こうとする対象/役/存在が完全に分離できないものというのが、俳優というものの面白さであり、厄介さだなあと思う。10年くらいまえは潔癖だったので、その厄介さは邪魔でしかないと思っていたけど、もう少しそれも面白いなあ、それも楽しみの一つだなあと思うようにもなってきている。
そんなこととは無関係に、アウグストザンダーの写真はいつ見てもいいなあ。
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2013年12月24日

修羅シュシュシュー

映画祭帰りのブレヒトとロルカ。すこぶるよい。渋かっこいい。

ああそうだ、わたしたちは何をやってるのかって、不在の像のための背景になること。ある像がその場所に、そこの間に立ち上がるように、私たちもまたそこに、一所懸命に立ち会っている、いるんだなぁとすごく腑におちた年の瀬。主役はわたしじゃない。私が全力でここにいようとするのは、常に、ここにないもののためなのだ。
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2013年12月11日

想像の中のその人

例えば、マンガやゲームやたまに小説などなどの実写以外のキャラクターにハマってしまうと、「本編」では描かれないその人の違う一コマを捏造する、なんて行為がよくある。
そうするとき、そこには自分にとってのその「人」がいる。

そのときの行為って、その人の日常を私(だけ)は知ってるの、みたいなストーカー的偏愛というより、その「人」の存在を信じてしまっていて、いつの間にか自分の「世界」の中にその「人」がすっかり生き生きと息づいてしまう、住み着いてしまうので、その人の時間の違う一コマを自分の内側だけじゃなくて表に出現させたい、という欲求がそうさせているんだろうなあと思う。

あくまでも、「ストーリー」を持つものに限って、かつあくまでも「キャラ愛」に関して限定しての話です。
例えば映画を見ていてすごーい、これすごーいって数日単位で抜けられないような体験をしたときに何で自分の内側でその続きの捏造に至らないか。それには大きな理由を3つ感じていて、一つには「俳優」がメディアであるから、ではないか。映像がいくら影とはいえ、俳優は、ある「ストーリー」の中で生きる「キャラクター」である以上に、観客にとって、自分が勝手に手を出せない世界を既に持っている存在だと、観客は受け止めている(たぶんね)。生身の人間は、「生身の人間である」ということそのもので観客側にとっては既に破ることのできない輪郭があり、その言動などなどを勝手に捏造することはたとえ妄想だけであっても難しい、というか、したくならない。だって自分の意思の及ばない範囲でその人はそこにいる、それをのぞき見ているのだし、だいたい生身の人について想像することは、いつだってものすごく骨が折れる。
そしてもう一つには、例えば映画や舞台などを見るときというのは、自分の外の世界に自分が出て行くという体験だから。自分からその世界に出向くのであって、自分の世界の中に「その人」を引き込むのではない。だから、「その人」は自分の世界には息づかない。スクリーンに映し出された世界に鏡のように自分を照射する存在=自分の影を見つけることや、その世界が自分の世界観と反射しあって交感していく、ということはいくらでもあるのだけれど、映画の中にいる人々は「その世界に/で生きる人々」なのであって、自分の世界の中には息づかない。どこまでいっても映画は覗き見る行為で、それにより自分の側のスクリーンが破れることはあっても、映画館のスクリーンという窓が破けることは決してない。3つめは、まさにその映写が終わる時のこと。「その世界」と私のいる「世界」との窓は、向こうからぱたりと閉ざされるから。

一方、マンガやアニメやゲームやフィギュア(これは三次元だけど「動かない」からこっちに含める)や文字による二次元創作物。これは、どれも「その人」を自分の内側に存在させることができる。もちろんそれぞれに先行する「本編」があって、だから、その世界の中で動く彼らの言動や人格は既に決定されている。にもかかわらず、そこには生身の実体がない。想像に骨が折れる生身の実体がない、ということにより、観客は「その人」という存在を自分の世界に勝手に息づかせることができる。それには「本編」でのその人の存在感がリアリティを持つくらいにはしっかり立っていてくれないといけないのだけれど、そのハードルはわりと低い気がする。それさえ超えれば、いくらでも補完できてしまう。断片的に見せられているその人の過去や未来や、その細部を勝手に補完する。そして愛でる。「その人」が自分の世界の中で勝手に動く様を愛で続けられる。
それはずっと撫でていられる、自分が捨てない限りなくならない。最上級自分好みの毛並の愛玩物。その愛玩物を携えて、の白昼夢は他にはない、誰からも遮られず自分だけで完結する、どうしようもなくあまーい心地よい繭なのかもしれない。
誘惑に溺れるのは簡単です。ぬくぬくした繭の中で生育する蚕は、筋力や力が育たないため自然環境で自力では生きられず、飛べずに死んでしまうのだそうですけれど。

生身の人間は、決定的に、自分の外側にしかいない。そこには絶対に、境界線が、断絶がある。生身相手の想像には粘りや、肉体的なまた精神的な筋力、努力を要する。失望とともにひとり。手を繋ぐ、たまにとびきりの喜び。そしてまた一人。

とかなんとか。私は、書くことと話すことで考えている。
演じることで考えている? 物語ることで考えている? 嘘をつくことで考えている? ものを作ることで考えている? のかしら、とまた思う。
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はまりごと

「物語」って自分にとって、自分と物語、それはどんな関係なんだろうか。
つまり、一つに、私はなぜ○○に始まり今はそれより面白いと感じる■■というスマホアプリにハマっているのか、ということ。
私はそこで何をしているんだろう。何を楽しんでいるんだろう。中学生のときのようにアナザーストーリーを妄想しているわけではない。読んでいる時間の心地よさ、柔らかくて甘い余韻を楽しんではいる。そこに何を見いだしているのか、私はその時、何をしているのか。
何か、逃避のための避難所でしかないのなら、別になんでも良い気がする時期にさしかかっている。そういった理由で手が伸びるときも確かにある。でもその時期も過ぎて対象として捉えるようになって、衝動的にそれを繰り替えす、というのでもない形で今そこに向かっていて、だから、じゃあ今そこに向かうのは何故かっていうのが俄然気になってきた。なぜ今映画や小説や詩ではなく、そこにいっているのか。好奇心から徒に時間を費やす時期を過ぎてなぜ今、それなのか。
例えば実写ではなく、挿絵+文章で構成されているからいいのか。それが実体がないからいいのか。フィクションだからいいのか。フィクションの中でも、確かに通り過ぎてきた、かつて夢見た出来事が起こるフィクション、かつ、YA的な成長も見られる読み応えがあるマンガちっくなものだからいいのか。また、強制的第三者として存在させられるのではなく、そこに加担する(選択の余地)感覚があるからいいのか。「甘い恋愛」の「ストーリー」だからいいのか、読み進める先に幸せな展開が待っているからいいのか、キラキラした良い思いをする主人公に自分を仮託して、甘やかされている状態が、まるで自分がそうされているようで心地いいのか。うーん、どれもこれも一見そうかも、と思い当たるようでいて、でも的中してない。真ん中にある動機はそれじゃない。
消費するだけではいられなくて書き写す行為を始めたら思いのほかその行為そのものに夢中になって、それは案外読み返すためではないのだなということも気付いた。書き写す行為、それそのものが、私には今一つの愉悦です。

そしてもう一つ、今作りかけている小話の一人芝居を巡って、これもっと自分のこととしてもっと探求することがたくさんある、まだ表現は、体はその段階にまでいっていない、階段は割と順番にしか上っていけない。でも、と思うので書いておこう。
物語を物語らない、物語は私の与り知らぬところで勝手に進んでいく、物語を語らない、語るってこととか、騙るってこととか。
「芝居をする」、その滑稽さ、役者の恥ずかしさ、芝居上の「恥ずかしい」という演技とか、そういうことではなくて、役者の勘違いや、それが本当か嘘か錯誤するもの、という役者のなにか、「変な体質」みたいな存在「感」とか。っていうこととか。無駄でどうしようもなくて破廉恥で、それでもじゃあ何故役者はそこにいるのかって、そこに焦がれる人なのかってこととかを。もっと滲ませたい。しみ出させたい。「物語」への偏愛とそれができないことへの不審と、まんべんない上澄み的な愛で方とが今の私をかたどっていて、それを私の技術的な云々、はどんな風に顕わしてしまうのかって、そういうことなどを試すような、などが試されるような、そんな機会になりそうだなあとか思っていて。今、私の一つには、そういうことなのかもしれない。一つには。

映画美学校映画祭2013で上演します。
「葉桜と魔笛 2013年冬版」原作・太宰治 演出・佐野真規 構成・主演 中川ゆかり
12月21日(土)15:30〜(上演時間40分予定)。渋谷です。映画美学校の試写室です。

今年は去年よりちゃんと芝居をする、というのが一つの目的なんだけど、それと同時に物語を巡って考えることと、そうすることに立ち会ってもらう、ということが目的なんだなあと思ってきています。ぜひ、お立ち会いください。お待ちしています。
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2013年10月28日

合掌

この人がいるからこの世界はまだ大丈夫、と勝手に頼りきっている人がいる。たいていの場合その人とは会ったことなんてなくて、しかもほとんどその人のことは何も知らない。だけどそれでも、その人の訃報で、その人がこの世界から消えたと聞くと、ああ世界は今大きなものを喪ったと、突然現実が壁のように目の前に立ちはだかる。その重くて粗いコンクリートのような灰色の壁に頭をごんとぶつけたような気がする。その壁のような塊は目の前でゆっくりと動き、ごりっと音を立てる。こういうときに聞こえるのはとにかく「ごりっ」という音だ。石臼がバランスを崩して堅い石同士がお互いをすりつぶすように削りあうときのような。それでも、それが聞こえても、あるいは一度聞こえた後、何も聞こえなくなったときの沈黙がどれほど重くても。石臼を回す手をとめてはいけない。今動かす手を止めているなら、むしろ急いて懸命に回さなくてはいけない。回して回して回し続けなくてはいけない。それ自体が加速して回す腕がちぎれそうになっても。あの人に続かなくてはいけない。あの人がさらに歩くはずだった道を、見えなくなった背中がそこにあると思い詰めて、前のめりで走っていかなくてはいけない。鍛えていない足はもつれる。どうせ1,2歩ですぐにつんのめってこけるのは目に見えている。それでもすぐに立ち上がってまた走り始めなくてはいけない。
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2013年10月09日

でぃぎんぐなう

(表現として表層を扱う、というのではなくて、)
表面だけでつくろうとすると、手応えが浅い。掘ることに時間を使ってみよう、ぎりぎりまで。この自覚、10代のはじめ以降、初めてかもしれない。ようやく初めてって。成長おっせえなあ、我ながら。
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2013年09月18日

TAD ANO NIKKIDAY ONE

最近、すぐにとても素敵だなぁと思う。素敵だなーは瞬間に宿っていて、いかんともしがたく瞬間はすぐに通り過ぎるので、瞬間がいくらあっても忘れてしまうのです。だからまた瞬間瞬間、瞬間に素敵だなーとすぐ思えるのでしょうか。聞いてしまった。

今年は初めて年下のクラスに出会いました。これは階級のクラス、ではなく、学級、という意図です。集団、でもサークル、でもなくしっくりくる呼び方が見つかりすっきり。
素敵な時間を経験したクラスの一人一人が、わずかながらの自信や誇りを手にしてゆく様を近くで眺めることができた。割と近くで過ごしたけれど、私は字義通り眺めていた。わけなのですが、(先生が話してくれていたように、)自分なりの仕方でクラスの中で披露し練習し、見守る人々によって承認され少しずつ自信や手応えを蓄えていき、そして全く初めての人に披露する中で生まれる不安と揺らぎとまた欲望と、そして乗り越えたいみたいな活力などなど。そういったものを持つ自分に気づいてまた自分の手に確かにすることというのは、自分の内側だけでまごまご、乗り越えられなくてまごまご、うごうごしてたところから一歩出る、しかも外に気づく、出会う、みたいなプロセスとなり、その流れは如実にその人を伸びやかに、素直に形作っていく。その様を、たまたま他の場所でも見たりして、あーそれってなんか素敵だよねーと思った、思いました。

彼らはもうまもなくあっという間に、あのきれいなレンガ作りの壁とあんな街で不自然なまでに幸せにさやめく緑で守られた聖域から追放される。そのときはハードでコールドなレインだけではなく、堪え難い緩慢な時間などなど、外の荒さや無軌道や不条理との遭遇でもあるのでしょう。だがしかし、勝手にがんばれ、とすごく思う。たまには会うんだろう、そのたまにが楽しみだなーとすごく思う。この感じは私にとって人に対しての新しい関わり方で、これはとても新しいモチベーションになりました。

それとまた別の話。
自分が言葉でできていること、を折に触れて思う折、というのがまたごく最近の流れ。折と流れ、はプンクトとダーシみたいな物理的な違いがあるのに書いてしまいました。すごいミクロに細胞とかゲノムとかよくわからない小ささまで身体の粒に迫っていったら遺伝子のようなわたしを形作る線状の何かは文字だか音の波に模されてでできているのかしらん、とか思ったら傲慢かなあ。あ、というか元々そんな形なのかなあ。どっちでもいいか、そんな感じがしてきた。
自分勝手なことを申しますと、言葉をしゃべる声が自分の好きな範囲に入らないととても面倒くさい気持ちになるので、結局のところ、愛着や敬意を持っている人や状況をのぞくかなりの発話を面倒くさい、みたいな気持ちで聞いているんだなーと思ってぞっとします。聞き流す時間がここ数年格段に増えていますが、振り分けてサンプリングまでできたら結構いいこやしになりそうなんだけどそこまでできっかな、や、できねーな、とかなんかまた自分勝手なことだけを思う。

卵食べたからなのか、泣いたからなのか、少しずつシンプルになってきてホッとしています。
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2013年08月29日

ちゅーしょーや

FBのように書いたらとたんに読ませてしまうようなところじゃなく、でもどこか手帳じゃなくて、外に記録できるところで書きたい、と思って思い出してここに書き出しましたらば、ちょうど昨年の今日も書いていたというこの事実。今日は父の誕生日です。だからなのかな。

なんだかものすごく抽象、抽象だ、目指したいのは抽象なんだこのやろう、とかもがもがしていたら、ここ1ヶ月ばかり、尊敬する親愛なる全然別の場所で活躍している諸先輩方がやっぱ抽象って気がしてきた、とかいうのを直接聞く、というかそんな話をする。東京の北というか西というか、その辺りいったいにそういう風が吹いたのかもしれません。
抽象抽象ってじゃあそれっていったい、と、詩っていったいなんだろうとかどうするとそうなるのだろう、とかそういうことをくるくるしつつ、E・ディキンスンの詩集でとびきりを見つける。口ずさむ。

例えば同じ言葉の連なり、シークエンスを短い時間のうちに100回くらい繰り返してみると、この眼鏡で見たらそう見えた、的な断定にすぎない意味がするすると抜け落ち、何をやっているのか、何を言っているのか、聞こえてくるのかよくわからないけれどこの音はこの口になじんだ、この一連の音どもは体から染み出た、というような言葉の発し方、とそのときの体、のことを全然別の場所で体験していた人が話してくれて、それはとても良いですよね、その時間の感じ、という話をして、うんうんとうなずき合う幸せを思い出している。というかなんか最近のとてもうれしかった記憶を私はリフレインしている。こんな奇跡のような時間を反芻して、その後の孤独を思い出している。
その方はそれを通じて体感した変化を語ってくれて、そうだそうだ、私もそういうことから始まったんだった、ということで、初心に返ってそれを毎日やってみることにする。強くなりたいから。
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2012年08月29日

冷静と情熱の手綱

お試しでみなさんの前で声を出してみて、今まで自分がやってきたことの、ある意味では手ごたえがありました、つまりは、わたしは「わたし」のない読み手であることに焦がれて、それによって誰かの「わたし」にはまってしまえたら「」になってあるいは溶かして、聴き手/読み手のわたしがくっきり、あるいは重なったりする声になるんじゃないのと夢に見ていた、、
ていうのは一つは明らかに、声であれと思っていた事実。

そんなところで今の課題、『言葉を届ける』、しかも私から届ける、この課題はひときわ大きなもの、しっかり向き合えたらしんのある身体と声をもった人間になる、なれるのだから、と夢に見る、、

さておき、具体的なテクストどないしよかね
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2012年08月21日

ぎうほ

昨日説明しようとしたことはなんだったのか、
自分をかすめている誰かの言葉、みたいなものなのか、
誰かのプライベートを代筆しつつも、
読む人のわたしがそこに荷担するような、のような。

ちょっとした飛躍もありますが
これまで、読むときの、
「わたし」という誰か
の言葉だから
誰でもさわれるというか、
誰のものにもなりそうな気がする感じを
面白いなぁとよく思っていた、とは思うのです。

と、昨日から始まった課題、
これから先も細々と続けていく核にできるはず、
だから、腹に力いれて育てる。
いつかはと思って恋してきた方にアプローチしてみるか、
最近会ったものたちと出会ってみるか。

と、今とても始めたい新しいことがある、
しかも良い予感がする。私以外の人にも。
ダッシュしたいけれどもちょっと大人にもなったのでまずは
準備と下調べから少しずつ。
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2011年12月09日

Into

ここで大事にしていることは、等身大の知性。フラジャイルなわたしたちの声と学び。学びあうこと。
演奏家でも歌手でも役者でもダンサーでもないわたし、じゃあ私は何よ、何ができるのよこの私を使って、これで一緒に、ここで、いまからここで、一緒にどこかにいくためにどうしたら良いのでしょうか、そういうことをやっている

プロフェッションをもちたくて学校に通い勉強している私、という私と同時にここにあるわたしは、いまからここで、レトフさんと、いつもの愉快な仲間たちと、立会人のみなさんと、かの地/知/血、に深くわけいっていきたい。

いまからここで vol.7 Into Soghomon Soghomonyan
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2011年10月20日

まゆみとジャクソンは山の麓で蒼い風景をみた

鮮明な悲しみを曖昧にたたえた、わたし、たちのすがた、わたしの羅列、であるの、に、
こんなにも、ぎっしりとわたし、は、がめいっぱい、充満して、はちきれんばかりに、ちぎれそうな、あし、あたま、てくび、う、でであるのに、のばすて、のゆびの先、に、は、あな、のような充満したなにか、があるのに、かれ、ら、は目を、つぶらない、つぶらな、いし、狂わな、いで見る、見ている、はちきれんばかり、にふりまわされたからだ、から、だ、からまる、で、ちぎれ、て、いるのに、たしかにその両足の10本のゆび、は地面を掴んで、ごーごーとかぜは、びゅーびゅーと悲しみは吹き付けている、のに、かれらは全身、で全力で見ている。のように見えた、わたしには。

そしてそんなものを見たわたしは少し恥ずかしくなって、色褪せないモニターに向かっているうちに色褪せるわたしをおもって悲しかったんだよなぁ…


昨日見たマームとジプシーさん、とても良かった。
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2011年09月06日

re;searche

数か月前に買ったまま読めなかった「小説トリッパー」掲載の高橋源一郎さんの「非常時のことば」をようやく読む。ようやっと、読めた。

やっぱり私はあの後、言葉を探していたんだ、と思い当たる。探しきれなかった、喉の奥には何もなかった、ので、開けたままの口に米や肉や野菜や魚、缶詰、菓子を詰め込んできたのか。出口を塞ごうとしたのか。と言うほど、その前と大きく違うほど過食したわけではない。のに、意味を持たせようとした、いま、また嘘をつこうとした。

太田省吾さんの「水の駅」が見たい。

冬に、春に、また何かできそうな気配。わたしのアプローチ、今のletter、嘘のない嘘、を/について、考える。
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