2011年08月18日

きよしこのよる

きよし、このよる
うそも誇張(こちょこちょ)も、
技術もウェルメイドも、整形も
あった方がよいのだけど、
(並列におくのはどうかと攻めないで)

繊細であればいいわけではもちろん、ないのだけど

嘘がないこと
きよしこのよる、
である よる。

あの場所で聴きながら、言葉をさがした。
言い当てたかったのでも、捕まえたかったのでもなく、
漂う温度、この近く/遠くのとなりに、
あるような漏れた息/光、
「」ほど確かではないなにか、
あの場所に満ちたなにかについてのこと。

尊い時間、時間の、思い出す記憶、を たどった跡。
何度もまわされた貝殻は、まるで時間/記憶をまきもどしているような
徒労なのはしってる、のに回すオルゴールのハンドル。

いくつか聴こえた、遠くの、彼/彼女の声、聴こえた、きこえてきたのでした。

あのとき、会社から家まで歩いたあの夜と、夜の後、
テレビが映した闇夜で燃えさかる海辺の家々とコンビナート、
あのとき感じたざらついた皮膜 を、帰り道に思い出す。
悲しかった。悲しかった、を 時間を置いてもう一度、思い出せてよかった。
私は今日あそこにいて、よかった。と思ったのです。

編み物オーケストラ『じしんのこと』 サラヴァ東京にて。
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2011年07月27日

通過再会(つうかさあ、いいかい?)

声そのもののになれたらなんていんだろうか、音そのものになれたらなんて浮遊感だろうか、とはいってもどうしても身体があるからな、って、
そりゃあ今よりはるかにあたまん中だけでとんがってたある時期は身体性のなさがちょうどよいやらまったくよくないやらでふにゃふにゃしていたけれど、けれどいかんともしがたくわたしには重たい怠惰な身体があって、その身体の置きどころが、たたずまいが、つまりは在り方がいったいどうしたら在るべくして在れるんだろうかなってそんなことばかりを考えている、いた、のであって、

あえて言い切るとすれば、その人の魅力は端的に、ひとつのあらわれとして声にあらわれていて、というか私は声にそれをみるんだなぁという実感を思い出していて、

久しぶりに宮沢さん特集号のユリイカを読んでいたら声のことが、ここにも何度書いたかしれない私の声への欲と近しいことが書いてあって、声、河崎さんも言うところの、「声にならない声」も含めて、単純に自分の琴線に触れる、人の声、という興味の発端に再会したのでありました。
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2011年07月20日

まねび中A

前にも書いたことだけれども、言葉はたいへん忍耐づよい。へんな役者だけじゃなく、色々な人の少々雑な声により、いろんな意味や色や味や温度なんかを勝手にまとわされ、押しつけられたりする。そのなんだかむちゃくちゃな人の業、という風にみればそれもまたいとおしいとも思うのだけれども、
まるでコップがコップであるだけの、人間が人間であるだけの輪郭と質量(田中みんさんのように)、言葉が言葉そのものだけの輪郭と質量であるだけのような、そんな状態ができたらそれはちょっとだいぶ感動的な状態かもしれないと私は確かに過去に思って、

今山内さんからまねび中のプロセスは、本当に本当に直接的に自分の身体に響くことばかり。これを丁寧にできるようになったらそれは私にとってとても楽しいことだ。例えば通路のひとつとしての朗読においては、そうして準備した挙句に言葉と自分の距離を適正に保つことをできるのではないか。それはこれまでの私がなんとなく、の感覚で行為してきてしまったことと形が似ていても決して同じではない。もしかしたら、もっと良いものになるかもしれないし、その挙句にたまに手放して捨てたりすれば、また結構な標高差のジャンプもできそうな気もするし楽観的に考えれば。必ずしも遠ざけることだけじゃない。関心に従い出来事を掘り起こして立体的に関係をむすぶことから、その後の距離のとりかたも自覚的に遊べたら、きっともっと無意識がぐいっと勝手にでてきたりするんじゃないか。ぬるっと気づかぬうちに移り変わる感じも捨てがたいが、いやきっとこれもだいぶ良い。
なんかいい感触。

あと改めて気づいたことといえば、やっぱり圧倒的に、身体から、より、発語/言葉と声の関係から、の方が圧倒的に浸透しやすい。しみこむしみこむ〜ってやつか。違うアプローチにあうことも喜びだけど、親しい道を、ずっと先の方を歩き続けている人を見つけた喜びもまた。なぜってやっぱりそっちの方がスムーズに、自分の内側で技術を育むための、素になる予感がするからだ。じゃなくて、実感がともなうからだ。説明会のときに感じたのは間違ってなかった。
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2011年07月04日

multilogue_play a text

音が降り始める
ブロックとなって
「あ」と「い」がおちてくる
私はそれを片付けている
いくつもいくつもおちてくる
いくつもいくつもおちてくるので
私はそれを持て余している
加速
今度は少しリズミカルに
「あ」と「い」がふってくる
かたちをもって
ブロックがおちてくる
かたまりになって
あまりにおちてくるので
わたしはそれをたべることにする
食べても食べてもおちてくるので
たべてたべてたべたのだけど
食べても食べても
私の中にはたまらない
「あ」と「い」はなくなっていく

それとはまったく無関係に

そらからは
どんどんどんどんおちてくる
食べても食べても
一向に片付かないのに
私はもういい加減飽いてしまって
今度はそれを吐き出していく
嗚咽交じりに
涙目になりながら
それでも「あ」と「い」はなくならない
内膜にぺったりはりついてしまったのだろうか
相変わらず落ちてくるのに
もう私の中にははいらない
私はそれをもてあましている
ブロックはおちてくる
塊となって
ごんごんつまれていく
いつのまにか
「あ」と「い」にかこまれてしまっている
私はそこからでられない
高い壁となっている
よじ登るにはまた食べ始めなくてはならない
いくら食べても足りないのに
もう飽いてしまって
いくらも食べられない
「あ」と「い」に飽いてしまって
もう食べられない
私は「あ」と「い」にかこまれている
さらにそらからはふりつづける
逃れられない
迫ってくる
窮屈だった
それでも無関心そうに
「あ」と「い」はふりつもっていくのだが
思い切って
両脚ですっくと立ってみる
すると
少しも重くはなかった
私の上には無数の
「あ」と
「い」が
降り積もっている
それをすこし
誇ってみる。
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multilogue_sing a song

「バーバラ」

ひび は うつろう
ひび に うつろう
うまれくるものは なにもない。
ひび。
ひび
しみでるのではなく
吸い込まれるための
みたされ
消えていく
溶けていくのは
蝋とアイスクリーム。
かたることばは なにもない。
とどめたいじかんは どこにもない。
あぷろーしぇ あぷろーしぇ!
あなた と のあいだを 少しでも埋めようと
わたしはおどる
(こっちへおいで)
あなたがたには触らない から
もっと近くで わたしをみて?
Approche approche!
ドアをしめてちょうだい
もっと小さな声で話しかけてください
すぐ出かけましょ
おとなしくしなさい
こわがらないで
Qu'est-ce qui est arrivé?
(いまここで)
Qu'est-ce que vous cherchez?
(いったいなにを)
急ぎなさい 約束に遅れますよ
でもその前にもう少し
ここで わたしを見て。
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2011年06月23日

まねび中です@

線と線の間に肉をつける、のだという。なるほど、と思う。それやったことない。すごい、難しいです。なんてったって、わたしにとってはあまりにプライベートなことで、人前でやるのもうもんのすごい恥ずかしいよ、これ。ああそうだ、書きながら思い出したけど大学2年のときに恩師のFさんに「ジュネが言って(書いて)たんですけど、俳優って露出狂なんでしょうか」って質問したのを思い出した。

朗読は、私がなんだかしらないうちに自分で探している方法は、線と線の間には、あいだしかなかった。あいだがあるようにするのだった。いつも、埋めないのだった。私は埋めないのだった。だから埋める方法を身体が知ったら、あいだをおくときももう少し色々なことを試せるのかもしれない。いや、肉をつける方法のときにもそりゃああいだをおくこともあるよな、きっと。だって間って言うし。
朗読も、難しいさ、まだまだ自分に何かができているとは思わない、けど、やっぱり違いがあるんだなーと、知る。こういうの面白い。学校で演技を学び、家で日課の音読をすると、学校行き始める前とまた違う通し方を探してるんだ、なんかこの微妙な変化面白いな。誰にもわかんないだろうけど、いやNさんなら気づくかも。いや、愉快な仲間たちは気づいてくれるかも。やっぱり続けることってものすごい面白いことだ。自分の中にお米育ててるようなものだ(『独学の精神』前田英樹さん著、ちくま新書の影響)。幸運なことだ。
よっしゃ今年の間に、朗読もやるぞ。やるよね。微妙な変化、重ねようっと。
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2011年06月16日

net

新しい人たちと会う。こんなに一度に、新しいひとりひとりと出会うのはひさしぶり。嬉しい、なんて嬉しい。関係ができる、もとい、関係する。ひとりひとりと夢をみる。あやとりをする。それときづかぬうちに、ネットがわたしにふれる。これはハンモック? それとも巣かしら。それとも天の川、マフラー、あるいは突然覆われて捕獲されてどこかにつれていかれるような凶器? といっても窒息することはない、なんせ編み物だから、糸と糸の間には隙間がある。
デジタルでもなく、光回線でもなく、注がれる光に触れるなまみのもの。ものとものの間にはどんな柄が?

こうしてあたらしくできるネット、いますでに身を守ってくれているネットと、ネット同士は絡まりあうかしら、重なるかしら、また織り込まれるかしら。
私の部屋にみんなくればいい、私が通路になればいい、な、な


今まで散々、信じられない、ということを信じてきた。
いま、信じることを信じたい気になっている。
信じているから、「信じられない」ことをまっすぐ見たいと思ってきた。
でもいま、手のひら返したように、信じてるよ、私、とか言う。それが声だ、私の。
結局のところ、私の全身は驚くほどに信じている。それを知ってる。それを思い出していたのかもしれない。信じる、が、どんどん加速していく。
もっとだ、もっともっと。生きたい。
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2011年03月25日

3月24日

彼や彼女がわたしとして
ひとりでいるところ
切り離されたその、行方不明の時間
かたちのあるものないものとすれ違う
結ばれてはなれる、
握手して別れてまたひとり

そのための
誰かの、場所を用意する

passive speaker なのですが
いつでも呼びかけに応じる用意があります。
そのときはなによりもわたしが彼、彼女としてひとりでいるので。
今朝、「どこへ」が複数あることの尊さを思い起こして、
難しさとうれしさに震えた。


最後になりましたが
昨日は開場まで長らくお待たせしてしまい
本当に申し訳ありません。
いらしてくださったみなさんに
心から、感謝申し上げます。
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2011年03月07日

彼の彼女の、いろいろなことばで立たせてもらっている。

芸術てなんだろうか、
表現てなんだろうか、
パフォーマンスをすることの積極的な意味とは

なんのために、それをするのか
なんのためにそれがあるのか、
疑問ばかりだ、矛盾ばかりだ、やっていることにも、やっていないことにも

ただ、どこかの誰か=わたし=彼/彼女によって書かれたことばを、
この現代、東京に生きるなんでもないただのふつうの人であるひとりのわたし=彼/彼女=誰かが、
音楽家として色々な場所で生きる人たちや、
同じく東京に生きるまだなんでもない人たちと、
ある時間、ある場所でなにかをする、
聴いて、
届ける、
あるいは伝える役割の、
そのことの、
意味はあるだろうか、
意味をもちえるだろうか、

問うことは、
それぐらいは、
やってもいいのではないか、と、
同じようになんでもなく、
だけど丁寧に、関係を頼りに、
ひびをうつろう人たちと話していると
それを頼りに、立ってみたい気がしてくるので
見世物にはなんとかしたい。
細部を丁寧に。聴いて、感じて、置くことである。
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2011年03月01日

ちまちまと

毎日ちまちまと作業を続けています
一日にこのことを考えられる時間は数字にすると、何時間だろうか
そうだ、数字にしなければよいわけだ。
数字にしないことをやっているのです。
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2011年02月07日

「待つ」への事始

待つにいたらない私の待つへのことはじめ。


要は、私は行方不明になるために、
(それも人前で)
オブジェになりたいのであって
その瞬間にはもしかしたら、
彼方の誰かに間借りさせることもできるのかもしれず、
あるいは間借り、させてもらえるのかもしれず
(それも人前で)

誰もが電波であるいは回線で容易に、
いともたやすく捕まる、待つことなく待たされることなく
捕まる今この時世に於いてこそ

喪失者が、遺失物が、
つまりは行方不明のものが
彼方への通路になれそうである。

私はそうしたごく個人的な欲求から
空間を必要とするのでありますが、
(人前であるからには)
ただ彷徨するだけでなく、
人前で呟きさまよう強さが、
つまりオブジェクトとしての強度がまた同時に必要とされるわけで。
(私はとにかく、その修練が足りない!)

今回モデルにしているヴェントゥーラはそれを体現する人であり、
あくがれの一人ジャンヌもまた、それを体現する人である。
(彼らを視る人の視線がまた、それを私達に見せてくれる。)

しっかりと輪郭のある、うつろをそこにみてとれるもの、
を体現するための、
でありつつ、

わたしの
目的であり方法であり主題であり対象である「行方不明」の時間。
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2010年11月26日

ひみつ

切り離されているとき 無数のものにひらかれている
わたしのなかを、みちをあるくように通り過ぎる人々、そして記憶(とたぶんいくつもの声)
わたしの代理の私…ただひたすらに、いとおしい時間

ここにあるものに向かうとき 具体的な一つ、と 結び付けられてゆく
一つの中の、とても多くの、一つ一つのもの と出会う可能性
代理のいない私…そうと気づけぬほど、大切な時間

人であるわたしはつながりに安らぎを見出す
人はだって切り離された孤独を抱えているんだから、
結ばれないと、生きていかれない
(ちょうちょ結びとかかた結びとか、はたまた断面を溶接しようとするとか色々あるだろうけど)

ときには大きな流れの中で、無数の小さな声に
ときには小さな個体の、その中や外の、多数の顔に

どちらも行き来する、ひとは行き来する
定住できずに、ふらふらとさまようだろう

ひつようなのは

ものがたり、つなぎとめる ものがたりは
あなたとかなたをわたる舟、
(だから)ゆれて、漂う
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2010年11月14日

共感1

「犠牲という概念は好き」

「犠牲になる、それだけは絶対に嫌だ」
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2010年09月30日

語るマジック

語ること、そして語りを聴くことでしか引き受けられないこの「わたし」の生。

魔術師の彼が語る物語をあたかも自分のことのように(細部まで!)語ることを通して、彼らは"不完全な"自分を、フリークの自分を引き受けているだろうと思う。…一見すると彼らはフリークであることを引き受けている、だってそれを用いて生きる糧にしている、でも実は彼ら自身が自分のものにできていなかった自分自身(つまりどうしようもない哀しみをたたえた存在であるところの)を、「ヘンリー」という存在に/を通じて見ている。

代理を通じてしか、経験できなかった「わたし」の人生。ファンタジーの主人公みたいな彼の「人生」をあたかも自分のことのように細部まで語る彼ら/「わたしたち」。
私は自分を、彼らに、そしてヘンリーに重ねたのかもしれない。広く芸人、つまり(それぞれ何らかの理由で)語らずにはいられないある"不完全さ"、あるいは矛盾を抱えた、「語る存在」に対する深い共感、愛情。私が愛着を感じる対象。

登場人物はみな、もちろんヘンリー自身も、彼/「ヘンリー」を語る。彼/「ヘンリー」を彼らが語るとき、その語りに他者が耳を傾けるときの、恍惚感。こうして彼(ら)は魔術師である彼/「ヘンリー」、希代の語り手で"物語"の主人公である彼を経験する。彼/「ヘンリー」は彼らの誰、でもある。誰もが彼/「ヘンリー」に、鏡を見るように自分自身を、美しいけれども極めて哀しい存在である、彼ら自身を、見出している。

また、非常に映像的なシーンについて。
真っ白な雪の中で、おそらくはその雪よりも真っ白な顔の男の像を追いかける真っ黒な顔になった彼。その彼が真っ白な顔の男を見失い、後ろを振り返ったとき、父はそこにいなかった。父を喪ったことをその目で見た振り返った彼の真っ黒な顔、それは父の喪失と同時に、自分(それはもって生まれた肌の色によって象徴される)の喪失/黒人になること/少年が(自分で)生きること、を引き受けた顔だ。
今日話しながら、改めて思い浮かべるそのシーンはとても映像的だと思った。

とまぁわたしはこの小説(語り)を通じて経験して、そして今ここでこうして、別の時間に語りそびれたことを語っているのです。完全なる自分のための語り。でも語らずにはいられないのです。
こうしてここで書くようにって語れれば、魔術師/書き手/語り手のように少しは聴き手を引き込むことができたのかなぁ、私でも。
語るには、踏み込んででも引いて、そうして幾度となくステップを踏んで。距離が必要だな、見て叙述できるだけの距離が。今日の私はまだその場所と、イリュージョンとに近すぎたのかもしれない。にんにん

あと、私もタイトルはまさしく言い得てる!と思ったのでした。直接言えれば(もっと)良かった。

ミスター・セバスチャンとサーカスから消えた男の話
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2010年08月10日

砂の舞台 #4

ひさかたぶりにホームページを更新中です。
そして8月20日に江古田で砂の舞台#4があります〜。

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2010.8.20(金)
Cafe FLYING TEAPOT
19:00 open 19:30 start  2,000円 + 1 drink order

曲・構成・コントラバス:河崎純
パーカッション:池澤龍作
朗読:大木秀久、中川ゆかり、浅井梓、原牧生、青木純一、
岡麻生子、南雲友人、原田健太郎、三行英登、河崎純
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なぜだかどうしようもなくシリアスになる、くだらなく愉快な仲間たち。お時間がある方はぜひ遊びに来ていただけるとうれしいです。

今回は色々なタイミングがあいまって、私はものすごく楽しい。楽しい楽しい楽しい。

予備校に通うイロトリドリの高校生の話をきいて、たまたま読んだ小説の題材が魔術師とイリュージョンであったりして、哀しい「バーバラ」さんを思い出して、そして私が受験生の頃には「私は道化師になりたい」とノートに、殴り書きしていたことを思い出す。なんだかひどく切実だったその当時。当時はそりゃかなりのものが切実だった、ということを差し引いても切実だった。身体性が伴っていないことにも遠くで気づいていたけれど、書きなぐったそれは、それでもものすごく切実な哀しみ故だったんだよなぁ。

いれものとしての身体の記憶はだいぶ信用している、とはいえ過ぎ去ったのだ。ここでいまどんな風に立つものだろうか。通り抜ける時間は。
聴こえる音が、時間が、楽しみ。
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2010年08月04日

渋谷で7.23だった

この間見た映画の、

見た後の手の、無力さの手触りの、その実感たらなかった。
たまらない、たまったもんではない。

無力な、触れられないこの手、この手を握り締める沈黙、強く強く握る、押し黙り歩く夜。

すぐに実感したからだ、に関する記憶を、すぐに移すのは嫌だったので、思い出し、思い出しながら写しました。
噛み砕き、飲み下し、そうするのだとしても、時・間がいるときの話。
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プロセス2

そこにいなかった人のことば
そこにいられなかった人のことば
そこにしかいられなかった人のことば。

他者としてしか立ち場のないわたしの、立ち居、振る舞い。
佇む、佇むまい?
地団駄、歩き周り、さあ、まよい。

「わたしが言っていることは、本当に、伝わっているのだろうか。」

きっと、この真剣さというのはそのまま、生き方、対峙する眼差しの強さ、に結びつく。
"ことば"の技術、というものは、だから、そういう点で非常に重要であると思う。つまり、伝える技術。伝えるための技術を磨くには、出したもので、伝わっているかどうかをちゃんと知る必要がある。
知るためには、だれかが必要。
見聞き反応し、意見してくれる人が(できれば複数)必要、だから私も、大事な、大事な人たちにとってそういう立ち方であいたい。
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2010年06月17日

「(信仰)告白」

計画性や論理的思考力が著しく欠けていることを自覚しています。
そしていま、あそこに属する一員として、まさにそれを実践に移すことが求められています。
そのチームの一員として、自ら乗り越え、成長し、成果物で示さなければならないことだと推測します。
それが自分に求められていることだと知っています。表れとして提出したものが対象としてのすべてです。
それはどこで、なにをしようと同じだと想像します。


これは少し長めの、一つの役だと見ればよい。だとしたら、私はこの仕事に努めよう。
それが役者の本分だから。
これは役なのだから、私自身ではない、たとえわたしに関わっていても。
一つ注意としては、演出は彼女ではなく私だということ。
彼女はこの舞台の登場人物の一人。
あぁこれでようやく、あそこでの立ち方が見つかった。


…神様、こうして大仰なことを書くのが私の(悪い)癖です。
お赦しください!

「」。
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2010年04月15日

砂の舞台#3

2010年4月18日(日)
TORIA Gallery トリアギャラリー 
東京都杉並区西荻北5-8-5 
http://www.toriagallery.com/

入場無料(投げ銭方式) 差し入れ大歓迎!(特にお酒や食べ物)

※出入り自由ですが、できるだけ開演時刻に遅れないようご来場ください。

14:30 開場
15:00 開演
17:00 パーティー+オークション

詳細:http://www.st.rim.or.jp/~mal/Cafe/

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考えること、感じること、はいっぱいありますが、はたしてわたしはそこにどうやって立っているんだろう、18日。

誰かが書いた言葉を読むこと、その言葉の根っこの、その人の生と切り離せない記憶、手に触れない目に見えない記憶を想像すること、その人には絶対なれない「わたし」、その人という「わたし」との出会い、その絶対的な距離、とそれでも共有できるかもしれないこと、その他者としてのわたしの可能性。
…けどそこに立つ人としての私(立てるかな私)は、不安の方が大きい、はるかに大きい。こわいな。まいった。
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2010年01月23日

片付け1

見つけた言葉は、あのときは確かに、なんて稚拙な、ささいな連なり(いつでも捨て置けるような)
をしか置けないのだろうと
思いながら、読みながら、書いた

今はそんなささいな持ち物さえ、驚嘆の対象である
それは不可逆なときの経過への述懐なのか、それともそのときの妹への、愛着のような偏った思い入れなのか
いずれにせよとても同じ個体とは思えない、な

続けなければ
いつでも腿をあげれるように、準備しておかなければ

空っぽからしぼりだすのが、内側が乾いて赤くてむけて、渇いて
とにかく書けなくて苦しかったけど
あれ そうか、それって身を削るってこと?

干した鰯の、抜いた内蔵側から匙でこそげとるような、
青いくせに とにかく苦しくて落ち着きたいと思っていたけれど
この一年、ちょっとは見て食べて腹巻いたし、また削ぎ始めてよさそうだ
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