2010年01月20日

ただのひとの

ディランがしみる。
何者でもないただの私に、ただそこにいる‘わたし’のために、ただ語りかける言葉。
ただの人、ただのたくさんの、ひとりの‘わたし’に。
誰でもない、ただの‘わたし’からの言葉。

今日の悔しさは、ただの自己愛でしかない。お客さんのことを考えてじゃない。この未消化な自分のいたらなさは、ただの人の、ただ人のためのこのディランの言葉から、なんて遠くにいることか。
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2009年12月16日

つれつれ

つれつれなるままのひくらし。

書き言葉なら楽しくおしゃべりできる、(そんな最近に)ちょっとどぎまぎします。

しかし、昨日「いまからここで」のみなさんに送ったメールで色々な人と一緒に居るときの自分の据わりの悪さ、根無し草感について書いてみて、そこで「もう少し自分が形を変えれば、色に染まれば座っていられそうなのに、ますますわがままになっているのでしょうか」とか書いてみた割りに、でもさぁわたしって、いかようにでも「形を変えて、色に染まる」ような、そんな自分の器感とかすごい意識してた割りにこの発言、これはなんて矛盾してるんだろうかとか気づいてしまって苦笑い。
確かに「ぱっかーん」てなってるとき、浸透圧行き来自由!千客万来!なときはまったくもってさらさらと、さやさやと人の間も、言葉の間も流れていけるのに「そうはいってもなかなかね…」っていうのもやっぱりあるのよね…。

そうそう、昨日4年ぶりにあった友人にも「ずいぶん落ち着いたのにやはり根無し草感(=浮遊感)健在」といわれてしかしそれはずいぶん嬉しかった。
4年前は不安定もとい、今よりもさらに不確かで、電車の中でまったく動ぜず座るお客さんたちの、マテリアルな自分の確かさをこれでもかと信じきっている様子が不思議で不思議でしょうがなかった。イメージや夢だけではなく、思考や固形物である固有の存在さえ、そういう個体の私のことがひたすら不確かで、それは斑のあるグラデーション状じゃなく、点滅、明滅だったのだ。

今はもう少し地面に近づいたという。「いい状態なんだね」といわれ、まわりにいてくれる人を褒められたようでまた嬉しい。
周囲の存在、その関係性の確かさがマリオネットのようにピアノ線でわたしを吊る。
はぁ、安心の言葉たち。

つ  れつ れなる まま の ひ、くらし。
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2009年11月26日

この日見た夢

愉快犯だった。
水をかけられたらアウト。
(おそらく)病原菌か毒素によって死に至る。

通ったことのない学校。
ベランダ、校庭、教室、がたがたに並んだ机。
私たちは大勢いる。

彼は時折姿が見えなくなるのだが、こちらはいくら隠れてもムダだった。
今度は近くに居た、仲が良かったはずのA子だ。
たまたま、私の番じゃなかっただけ。

音もなく、彼は近づいてくる。
トイレの扉の、開いたときにできる裏側の隙間に隠れた。
気づいていないと感じた。
瞬間、頭上に水鉄砲から発射された水滴が降る。

  アウト。
 嘘。私も?


ここで、意志によって眼を覚ます。

強制リセット、したはずなのに
「死ななきゃいけないんだ」と思った、
その感触は残る。

今日見た夢。
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2009年11月12日

拍手拍手拍手

『H3』グルーポ・ヂ・フーア
2009年11月11日@西巣鴨

序盤。物語性のある滑り出し。ストリートにいる彼らの会話の応酬。空間の広さに対して慎ましさが続き、会場全体の空気はどことなく散漫を感じさえした。
「もっと話しかけて」
収斂されたその動き、でもこの遠さがもどかしい。

もどかしさと物足りなさで焦らされたと思ったら一人、また一人奥から現れるごとに、じわじわと空間が拡がりはじめた。不意に、蛍光灯で露わになる体育館。普段着で後ろ向きに全力で走る彼ら、そこはさらに拡がり、拡がり、拡がり。

アジアンともヨーロピアンとも違う、肉厚でバネのある身体が美しかった。そして地に足の着いた、等身大の知性。

魅了された。彼らへのあのときの感情は、いとおしさだ。

何があんなに応援したいと思わせたんだろう、って
で、ふと思い当たる。ストリートにいたからだ。彼らが、確かにそこからきたからだ。街の風景が見える。見たことの、訪れたことのないリオ、ブラジルの街の景色。彼らが身に纏い、地球の裏側の、東京まで連れてきた景色。

素晴らしいパフォーマンスでした。
これからも、心から応援します。

国際的に活躍しているというが、そうしないとブラジルで活動を続けるのが難しいとインタビューにある。よく見つけてくれたな、彼らを。ほんとによく連れてきてくれたなぁ…とディレクターの相馬さんはじめスタッフの方々の仕事に感激。
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2009年11月07日

After Theater

文化は文化の言葉で語らなければならない。
ただ、文化が語るとき、文化に閉じこもって(引きこもって)語るのでは少し足りない。
それは声が小さいからではない。
その声が、他者に向かっていないからだ。

独り言の体であったとしても
それは外へ向けられた言葉であってほしい。
そうしないと、他者の耳には響かない。
(耳を澄ませたとたん鼓膜が破けそうな爆音以外は/であったとしても。)

私は文化を応援したい。
傲慢な言い方なのは承知の上、でもそれが本心だ。

コンテンツを消費したいんじゃない。
媚を売ってほしいんじゃない、稚拙に振舞ってほしいんじゃない。
耳障りよく、オブラートに包んでほしいんじゃない。
貴賤も、優劣もない。
(そんなことは本質的なことじゃない。)

他者に向けて話してほしい。
真摯なその声が、聴きたいんだ。
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2009年09月24日

ゲンズブールに惹かれ

明るい場所にいたあとは、陰に隠れたくなる。闇を覗きたくなり、また擁護したくなる。混沌、醜悪さを、人間は持っている。そして同時に、一点の曇りもない、透明でこの上なく清らかな(なんてへたくそな描写!)純粋としか言いようのない水晶もまた、人間は持っている。穴という穴を覗けば、どこまでもつながる生命の闇が見えるだろうか、それはまた脈打つ鮮やかな生命につながっている。辿ると赤子の臍に着く。また一つの世界に、そこで出会う。こうして人間は、切り離された孤独を、(穴を覗きこむことで)埋めようとする。手のひらで作ったひしゃくで掬っては穴に水を注ぐのだが、何度流し込んでも漏れ続けている。気づかない程度に、いつも染み出ている。また覗き込むと、すっかりそこはからっぽになっているので飽きもせずまた流し込む。あたりはいつも生温かく湿っている。破片は渇いている。破片は破片なのだ。沈んでゆく。
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2009年09月20日

映画を見る日々です

「関係」のある風景がうつされてること、
換言しがたい人生がそこにあること
人生は声高に主張しない
彼らは声高に主張しない。

主人公に感情移入はしない、第三者として参加する観客。
観客は、ときにスクリーンの向こう側の声に語りかけられることはある。
主人公の目をのぞき込む、彼の感情を追体験する。
これもカタルシスだろうか?

ゆるやかな変化に見える、深い変遷が描かれる。
そういう物語は面白い!
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2009年08月13日

電車を待っていた

何もいえないのだから、せめて
丁寧に聴く。待とう。
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2009年07月22日

文化は文化の言葉で文化を語らなければならない。

女性は女性の言葉で、
明日は明日の言葉で。

ただ、過去は、過去の言葉で語るべきだろうか?
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2009年07月09日

プレイする。

ある時期、正論を言うのはかっこわるい気がした。
はずかしく、やぼったく思った。

今は一生をかけて同じことを言い続けるのはかっこいいと知った。
すごくすごい。


あらゆる存在のために祈れなくてなんだと言うのだ。
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2009年06月21日

私信ですが

親友が、イギリスへ発ちました。
早ければ1年、2年になる可能性もあるようです。

淋しさは、相手あっての揺れ動きなもので、
まだ同じ土地にいるときには実感せられていなかったものが
こうしていってきます、と言い残された身には奥の方から
懇々と湧き出ては小池のように溜まりはじめるので
これの水位が上昇し、ときに眼から鼻から、こぼれて
流れてくれるのでしょう。
水は乾けども、懇々と、湧き出たはじめの跡はそのままに。

私、私も、彼女に恥じないように日々を生きよう、
そう感じさせてくれる、大切な友達です。
次に会うときが楽しみです。
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2009年06月17日

偉大なる若さ

「バーバラ」の私が、現われとして、私には重要だと思われた。
そうあってしかるべきだ。

でも、これは平たく言うとメランコリーで退廃的なので、
これは時に、というよりいつも、身近な、大切な人たちを傷つけうる感じやすさであり、アティテュードであり、
だから同時に私は、同時に私にある、愛のまなざしを、
ちゃんと持っているよってちゃんと見せて、安心してね、
と語りかけるようにしている。

でも私は、今は信じていいということを知っているので、隠さずに一緒に持っていようと思う。
持っている、と見せてもいいことにした。
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2009年06月11日

どんなにむなしくても、祈りたい。そういう癖がある。

今日は去年の9月に書いた日記をたまたま読んで私には面白かったのでアップします。

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普段の自分が置かれているコンテクスト(文脈)とはまったく無関係な関係の中で生きること(playすること)が楽しい。のだとわかった。小さいころから物語の中に登場して好き勝手に振舞うのが好きだった。だから、お話を思い描くのが好きだったんだった。お話、といっても自分にとって割りと都合のいいもの。カフカみたいな、いつまでたってもたどり着けない城、みたいなのは、やっぱり楽しくない。都合よくは進まない夢。だけどその、眠ってしまった後にみる都合よく進まない夢、で主体的に動けた朝には、余計に楽しい。
小学生のころだったかある日、自分勝手に夢で動けるんじゃないか、と思った。つまり、危険に合いそうになったら、リセット(目を覚ます)のではなく、あくまでも夢の中で、つまりそこではすべてを変更可能な創造主として、あるいは書き手として、登場人物やそこで起きることに変更を加えることができるのではないか、と。ビルから落ちそうになる夢を見ていても、飛んじゃえばいんじゃんとかって飛べちゃう、みたいな。普段夢の中にいるときは、自由に振舞っている。その自由さ、それはいわゆる現実、日常生活において実際にそうであるように、いつもそのようにしか振舞えない、程度の自由。振舞えない、といっても、さほど不自由を感じていないけれど、すべてに自分勝手というようには動かない程度の自由、自分だけの都合では動かない、というかな、その関係の中で、ふさわしいように振舞っている、ような気がするのだけど、というか、それ自体を意識していない、忘れている感じ?で、夢の中でも、そういう感じで振舞っている。その関係を一つ外側から、つまり作為をもって、見ていない。現実のときも、客観的に状況を把握したりするたとえばアンネが書くところの、「冷静に観察するもう一人の自分」みたいなのは、みんな結構持っているんだと思うんだけど、その上で自分の役割を生きていたり、あるいはそこに没入し切れないときの方が長くて、いつも遠巻きに眺めてしまってなんだか寂しさばかりを感じてしまったりとかいろいろあると思うのだけど。しかしそこに作為、というのはあんまり持ってないしもてないよなー、やっぱり、思うとおりにはいかないというのが実感としてあるし思うとおりにしたくないし、それはたぶん面白くないよ。全部自分が思うとおりに動かすなんて全然面白くない。たとえば物語やお話を書いていて、そういう風に自分の思うとおりに登場人物が動き始めたら全然面白くない気がする。ある程度こんな感じの、ここで生きていて、という場所、あるいはもっと言うと、書き出しの関係や状態だけは少し限定、足がついている床、土という意味での世界、はもって始まるけれど。


や、私は自分を変わってるとか才能があるとか、おかしいとか思ってないしそういうことを言いたいんではなくて、だけど、もう一つの物語、みたいなのがいつも結構ほしいんだと思った。というのは、今働いてないから、現実社会において関係が、プライベートな関係しかない、というか、家族とか、恋人とか、友達とか、あるいは「いまからここで」のように一緒に音楽に取り組んでいる人たち、というのはあるけれど、仕事の関係はないから、それがあるとまた違うのかもしれないんだけど。でも、あったとしてもたぶん、それとは無関係の、別のコンテクストにすこんと入っちゃう、そこに自分の、いわば主体性だけがすこんと入って、そこでまたplayする、というのが、楽しいんだな。それはまぁ妄想、みたいになってしまうし、白昼夢、みたいな、ということなのかも。それだけになると、いろいろとよろしくない気もするなぁと思いもしたのだけど。小さいころとか、実際それは一つ、逃避の方法だったんだ。物語を書くというのは。物語の読者であるときも、だから本を読むときや映画、漫画をよむときの楽しさ、というのは、「自分」とはまったく無関係な世界(文脈)にすこんと自分がおかれて、かつそこで生きていることなのかも。生きている、というのは、必ずしもplayerとして、他の登場人物に認識されていなくても、(作者が別にいて、すでに書かれている世界だから)そこでは当然作為を持ち得ないわけで、つまり観客、第三者としての位置で参加している、楽しさ。Virtual reality かな、と思う。
たとえば、彫刻とかダンスとか、舞台とか音楽、うたとか、そういう生身の身体で感受するもの、は、普段の自分のまま、普段のコンテクストから逸脱させられる、ただの固有の、「人間」というものとして感じられる、それはまた前者の「ハマる」楽しさ(この「ハマる」という言葉も、そこの世界(文脈)に収まる、という意味から生まれたのだろうか?)とはまた異なる体験のような気もし。そうか、これが、異化、なのかな。一つの。わたしが普段の「わたし」の、違う【】に入ったり、あるいは「」がものすごく、もっと広がっていくというか、世界に存在するものとして、つまり、客観的な世界と関係するものとして、かっこがとれたように感じられる、ほんとに新たな関係が結ばれたような、そこで初めてあぁ、在れた、という実感を持ちえるような・・・
そういう体験をしたことがあるから、それ、やっぱりものすごいいいんだよね、と思う。

と、こうして書いてみると、私が俳優というあり方、に惹かれ、またそこから体得し、そしてまた結び付けられるのはよく理解できる。俳優は、稽古なんかを想像してみても、関係が毎度毎度そこで作り直される存在であるし、まったく自分とは無関係のコンテクストの中に投影された存在だから、まさにそこには関係と、存在しかないのであって、そのよりどころが言葉であり、景色であり、他の存在であるから。それは私にとって、ただただ快楽の一つなのだろうな。と思うのだ。自己陶酔ではない、まったく逆。匿名の、無名の存在として存在しえるから、わたしの都合で言うと。ただ、じゃあ、といって素直に俳優を仕事にできないのは、見る側からすると、俳優の自明性は、無名性の邪魔をするんじゃないかと思ってしまうこと(今は必ずしもそう思わない2010/11/26)、それで糧を得ることの難しさだろう。顔と名前を知られてさえいなければ、いくらやったっていいし、あるいはいくらでもまぎれてしまえて、そこには邪魔な要素がないけどさ。(←何をやったっていい、だけど歯を抜いたら痛いのは固有の私2009/06/10)

映画やテレビや舞台におけるスターシステムというのも、見る側の楽しみとして、俗といえば俗だけど、金銭的な名目だけでではないうまれてきた必要性があったのも容易に納得できるしな。だっていい俳優はいいものね、そんなにいないし、魅力がある人がたくさんの「役」をやるのはしょうがない。で、そうしたら名前を出さなくても顔は覚えるし。仕事をしていく上では名前があったほうがよい。売りものになるしな。その辺の矛盾がまったく解決できず、内向きに思い悩んでしまう。見目がよいほうがよりよい、とか、有名人(名を有する人、全員なのだけどね、ほんとのところ)として一般の「無名」の人とは区別され、特権化され、そこでは固有性が強調されるがゆえに、個人が奪われる。まぁ不毛というか、いかんともしがたい部分がだいぶある。この世俗性が、どれだけのことを奪っているのやらとも思いつつ、とにかくどこでその場所を得たらいいんだろ、生きたらよいのだろうかと思う。そこで残された可能性は、プライベート・フィルム、あるいはプライベート・パフォーマンス、になるのでしょうか? いや、それは何のためにやるかと問えば、パブリックでなくては。他者の目に触れなくてはならない。(このパラグラフ加筆修正2010/11/26)
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2009年06月07日

圧巻

2009.6.5.Fri
APORIAS TRIO 共演:齋藤徹@音や金時


旅に連れ出される。
ざわめいた森を抜け、ぽっかりと出現した湖に急に出会ってしまったとき、その場所ですでに行われていた演奏は、どんな来訪者も意に介しない、続けられ、拡がり、拡がり、拡がり。
手を引っ張られたそのときから鳥となり、カメラとなり、空中も陸中も水中も、はては人体の中までも縦横無尽に飛び回り、急降下しまた舞い上がる。
旅は物語に出会う、移動することが、物語を見つけるから。

ロマンチックな瞬間も、楽器から声が聴こえるときもあり、身体が流線になって駆け巡るときも、鋭い滞空時間のトランポリンで飛び跳ねる私、世界の各地をめぐる。


かっこいい人たちがいる!!

いまからここで、記念すべき第1回目出演の中谷達也さん(Perc)のインプロ・トリオ(レイモンド・マクドナルド:Sax,ニール・ダビットソン:G)と生で初めて聴く齋藤徹さん(Bass)。
こんなに楽しいなんて。上に書いたのは、当てはめられない言葉を仮に置いてみた感じ。
換言しがたいし、その必要なし!
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2009年05月08日

引っ張り出した手帳

もし仮に、演劇を信じるのであれば、リアルを探さなくちゃならない。
身体と言葉と、描かれた世界が現れる地点を必死で探さなくちゃならない、
と思う
そうじゃなきゃ、意味なんてないよな

私がここにいるなんて誰がそれを証明できるだろう、結局誰かの見ている夢
に過ぎないんじゃないかと思っているときがあった
つまり、前提のゆらぎだ
今それが切迫した問題じゃなくなったように感じるのは、いったいなんなんだ
人がモノになれば、そうして世界を構成する一部として在り、循環する事ができるならば
悩める私は救われると思っていた

だけどいざ生活すると消耗し消費することを、浪費という観念で捉え
このごく些細な無名な私はそれになんとか抗しようと、


デプレシャンが言うように、「もし君を変えたなら、少なくとも僕は存在した」のだとしたら、
たとえば仕事をしようとすることは、それを確かめようとしているのかもしれない

「君と僕が変わったのなら、そこに、少なくとも僕たちの間には、世界が存在したんだ」

前に日本版カイエで見つけた彼の言
私にとっては代替がきかない
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2009年04月20日

知己知己万万

ほんの2年前に、考えていたこと。
その続きを、厳密に言うとそのずっと先を歩いている人の足跡を読む。
私はそれを、とりあえず置いておくことにした。
なぜならそれは、もしかしたら囲いの中にいるときだけの、限定されたところだから思いついてしまった、ひどく狭い視野なのかもしれないと思っていたから。
なぜ私は、それを置き去りにしたのか?
なぜそれを旅に出さなかったのだろう?

いや、私は「いまのような生活をすることが」、ブーメランを“捨てるつもり”でぶんなげることだと思っていたんだ。
間違えた。
あくまでも消えないように、ときには手のひらで雨風をよけてやらなければならなかった。
ときには痛いほど輝くように、空気であおってやらなければならなかった。
引きずられることと、ごっちゃにしちゃだめだ。
自分の中に間違いなくあったものを、引っ張り出して外で立たせてやらなくちゃだめだ。
外の空気に触れなくちゃだめだ。
そいつが触れなくちゃだめなんだ。
私は置き去りにした。
捨てるつもりじゃなかったのに、もってかれるのと同じだ。
精一杯かき集めた灰が、ほっとかれて霧散するのと同じだ。
ちくしょう。
これを捨てたら、ずっと亡霊を追わなくちゃいけないじゃないか。
これを捨てたら、ずっと抜け殻でいなくちゃならないじゃないか。

でもいまのまま、そのときのそのままのかたちでまた内蔵することはできない
なぜならそれは一度、身体の外に置いてしまったから。
それに対して、すでに批評性を持っている。
とにかくも拾って、まずそれを眺めて、とんかちで殴る。
ようしゃなくこねる、たたいて展ばす。
これがあれば私、拡がるんだから
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2009年04月11日

『震える石』vol.3

河崎さんのライブへ行く。

なぜだか、眼を閉じて聴くのが惜しい気になる。視覚も、捉えるのに、振動を追うのに、開きたくなる。
「もの」感があった。存在感、といえばいいのか。
立つ人、がそこにいる。と感じた。
あの空間がいい。「ひろがり」の中にいる、そのことをもって、空間を感じる、というような。
そして、無時間・感をもって、「時間」の中にいるのを感じるような。
音色とか、音楽そのもの、(そのもの、があるといえるのかはまた別のお話になってしまうけれど)それについて書けないのが、音楽素養がないからなのか、聴けていないからなのか、

でもなぁ、昨日は、聴く、というのは、受け止めること、というような気がして。
浴びるともいえる。
全身でひろがりを体感する、それは私には、ひとつのとてもうれしい”悦び”なので…
何度か、涙ぐみつつ。
感激したなぁ。
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2009年03月04日

消えた日に見た夢

恋人でもない親でも兄弟でもない関係の愛しい人を失う

関係は、すべて「対その人」の、その人専用の回路ができることだろうと思う
それはあまりに独自で差し替えも取り替えもきかない、

それが失われる、対象が亡くなり、回路もすっぽり抜け落ちる

一度できた回路、出口がなくなった
つまるではなく、なくなった
なんとなく跡の感触を感じた
その悲しさは いいと思った

こないだ見た夢。
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2009年01月30日

なることについて

変わり続けている個体を、どう信じればいいんだろう、赴くまま、なんてひとはよくいうけれど。
どうせ、ずっと、通過中なのだ、ずっと通路のなかにいる。行き止まりのない、だから、どこに行くかよりも、どこを目指すか、何を目的に、ということを持っている方が、ずっと楽だ、一つ一つの場所に固執してとどまることなどできやしない。ただ、通り過ぎるとき、折々に、在るべく。複雑であればあるほどシンプルになる。その逆もまた。

強いカナリアに、なることについて。
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2009年01月16日

私の部屋

どこに連れて行かれるんだろう、私は
この通路を通って
そのとき、どんな景色が広がっているんだろう、
前に、隣に、そして後ろに

まったくほんとに、触れないというのに、
いったいぜんたいこの重みは何だっていうんだろう

石を拾おうと思ったのに、
このあたりには転がってないなぁ
石がある道に出よう
石がある道を通ろう
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