2014年11月12日

鳥餌

無言であれ、なんであれ、話しかけるのが好きだっただけだな。なのになんでか、どうしても、声をかけがたい人もいる。それしか取り柄がないのに、それを取り上げてしまったらますます何もない。困ったなぁ。
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2014年11月09日

優しい手の話、その1

つい今週のことです。一つの場所が結びの時間を迎え、もう少し長いスパンで長い距離を走り続けている時間が、離陸前のいよいよ大詰めの時間帯を迎えています。映画ではいくつかのタームがあって、それぞれに大詰めやな、という時間帯があるのですね。そのうち、今は撮影期間中とは違う大詰め感で、どちらかというと地味にこたえる(答える/堪える/応える)タイプの時間帯。大詰めとはいえ、すべてがstuffedされたところで素晴らしい大空に飛び立てることが約束されているわけではない。大詰めって何よ、と別の場所であった人につっこまれてうーん、確かに何だろうこの大詰め感、とか思いもするし、夜中に2、3人で延々走ったり撮り直したり頭抱えたり困った顔したり苛立ったりハイ/灰になったり、沢山の人の役に立つようなすごくいいことだけをやってるわけじゃないし、これまでどこか、特権的な優越感を抱いていたこと、そのかっこわるさも首をしめる。精神的な体力的な底を見ることは毎日ではないけど、この密度なら忙殺ってありえるかも、でもまだギリいけるか自分よとか身体とこっそり会話したり、1番いいたくない時間帯で1番いいたくない相手にキツいと表明してしまったり(それは大事なんだけどやっぱり苦しい、でも修復)、有り体に言えば、色々な軋轢や葛藤が細かく細かく頻発してきたし、今もしている。
でも、ちゃんと寝ればあっさりと回復する。多少バランスやチューニングが乱れても起きれる。体力ついてきたのかもしれない。
昨日Eテレの『漫勉』で、漫画家さんたちの精緻な手つきや迷いや葛藤するペン先が面白くて見入った。作業する手は美しい。柔らかくて優しい。いま作っている映画の、円の中心にいる方のみならず、それぞれに関わる一人一人の生々しさや疲れた顔、それでも集まったりできることをできるだけ、と差し出されるその手の優しさよ。この優しさは、質とは直結しないとしてもだよ、存在感そのものになっていくんだよ。何度も何度でも、これに掬われている。最近、本当に優しい手ばかりに会う。きっと手の本人はそんなことないよ、って言う人ばかりだけど、いやいや、知ってるんですよ。そうじゃない手もいっぱいあるし。私宗教家かもしれないけど、毎日感謝してばかり。ありがとうございます。
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2014年10月10日

ねえねえ、わたし、ここにいる

8月から開催中の「黄金町バザール2014」特別企画「演劇パビリオン」に参加しています。
の、上演のお知らせです。まずはだだっと見てみてね。

「日常の上演」 http://tcf-project.net/838/
演劇パビリオン http://tcf-project.net/pavilion/
演劇センターF  http://tcf-project.net

7月の頭に初めてお会いして一緒にやれることになって、8月2日から通い始めました。それからあっという間に2ヶ月半。少なくとも週に1,2回、黄金町に行っています。10月はもっとたくさん行っている。
黄金町と東京には距離があって、いくつか電車を乗り継いで、最後は赤い電車に乗っていく。行くたびに変化があって、いつもそこにいられない私にはタイムラグが起きて、私は、私がそこにいなかった時間を想像する。いない間に流れた時間を想像する。

たくさんの時間が集まる場所で、この場所にはこの場所の時間が流れている。その中を人が行き交い、立ち寄り、腰掛けてはまた立ち去っていく。そのさまを、私は見ている。お茶を出したり、お話をしたりしながら、複数の時間が行き交う地点に立っている。たくさんの人やものの、かつてと、いまの時間が私の中に流れ込んでくる。ここにいると、よく見て、聞いて、待っていることができるから、もしかしたら、誰かにいつか、の時間を手渡せるのかもしれません。この体がここに置かれている限り。


私は時間を見るのが好きで、とにかくそれが一番好きで、だから、こういう風にいろんな時間がよく見えて、感じられて、っていう中にどぶんと浸かっていられる時間がまたうれしくていとしくてたまらない。ほんとにたまらない。

10年くらい前に強く憧れた演劇があって、でもどうしてもそこにはいられなくて、だから私にとって演劇は、どうしてもそこにいられない場所になっていた。それからしばらく「演劇」を遠くから眺めるようになりました、でたぶん7年くらいかなあ。演劇をよく知っている演劇が仕事ではない人や、映画や音楽をつくる人と一緒に時間をすごして何かの時間を作って、映画や演技や芝居、アート、パフォーマンス、などなどに少しずつ近づいたりしていたけれど、それでも演劇だけはどうしても中にいられなくて、やっぱり眺めていた。

そんな私でもね、演劇の渦中にいられる場所があった、というか、いたいようにいさせてくれる場所をもらえたのです。いただいたと思う。だからこの出会いは本当に大きくて、私にとっては本当にギフトなんです。演劇との邂逅です。ここから何を返せるのかなあ、ギフト。いつか/かつてのわたし/あなたに。ほんの少しでも手渡せますように。

日にちや内容も追加でお知らせできることが今後増える予定です。ので、また告知しちゃうもんね。
黄金町バザールも、演劇パビリオンも、とても豊かだよ。ぜひ足を運んでみてくださいね。黄金町で待ってます。
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2014年09月17日

毎日同じことを言っている

知りたい、教えてくださいあなたのことを
全部知りたい、知っていたい隣人として
あなたが何者かを知りたい
「尊敬し、尊敬されること」?
「信頼できること」?
何の欲が強いのかわかった
知りたい、もっと知りたい
わたしのことを伝えることよりも、
あなたのことを知ることの方が
わたしにとってはとても大切
とてもとても大切
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2014年09月07日

たとえば、の続き

子を生さずとも、二人の間に生まれたものを、育てているではないか、

彼女は、それを殺すのではなく、生かしたいと思うのです
生まれた瞬間につぶれてしまうものだっているけれど
ひとりでにそだっていくものだってあるけれど
ちょっと目を離してばらばらになったあげくに、また落ち合えもして
添え木を傍に置くことで、水をあげて、丁寧に話しかけることで、
そっと守ることで、
花を咲かせて実や種を、繰り返し、遺してつながるその先を
生すことだってできるんやないの。
どんな風に触れば、どんな風に交わせば
うむことができる、育むことができる、
わたしとあなたで、彼と彼女で
親みたいになれるかもしれないじゃんか
ねえ、そうやない、そうやないの?
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2014年08月16日

べけっとべけっと

ああもう、ベケットやばい!
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2014年08月13日

埃が降り積もることについて

赤ちゃんが生まれたばかりの家庭に遊びに行く。地に足をつけて本当に真面目に、誠実に着実に蓄積する暮らしを築いている目の当たりにすると、いかに普段形のないものにかかずらわっているかということに直面する。少しの卑屈さとむなしさが、こっち側にある。つくづく自分なんてろくでもないと思う。蓄積しないもの、なくなってしまうもの、消えていくもの、もともとないもの、そういうものにばかり囚われる。形のあるものを着実に蓄積していく樣は眩しいよ。つくづく、色んなものや人にすみませんって思う。ろくでもなくてすみませんって思う。穀潰しですみません。ろくでもねえや。でもね、うつろう人は、うつろう人なりの美しい時間とともにいるよ。そういうとびきりの生命を、知っているよ。街角にたたずむあなたを、知っているよ。私は知っているよ。あなたを映すよ。私が、あなたを映すよ。私はあなたを、あなたがここにいたことを、いた時間を、その跡を、終わりを、続きを、その先を、正確に。できる限り精確に。トレースする。トレースしたい、させてほしいんだよ。
こんな人々に。あなたにも、私にも、彼にも彼女にも、一様に、「時の埃は降り積もる」(『エレニの帰郷』/アンゲロプロス)。雪も。身体に。時間に。その街に。降り積もる。降り積もる。融けていく。消えていく。
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2014年08月03日

うらめし家

こんなん書いてるの無駄だ、こんなの書いてる時間あったら映画を一本、といわず二本、三本見れるんじゃないかほんとこんちくしょう
映画の時間にあわせられない拘束時間がうらめしい、どこかを楽しようとするとやっぱりこういうことになる、ただただうらめしい
不義理だ不義理だ不義理だ、けど
自分の仕事とやらをちゃんとしなくては
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2014年07月15日

宇宙的の中にいることをめぐる話

昨日の某JEL撮影の合間や後に諸々話していてあれこれヒントになる話がたくさんあったんだけれど、なんであんな演劇やこんな演劇を見て、素直に面白いと思えないんだろうかという長年寄せては返す自分への疑問について、他の方法を選んでいる芸術家の一つの回答で納得。そうなんです、きっと私もそれに憧れてるんです、というもののそれをめぐる話に興味津々。http://www.cinra.net/interview/201407-me?page=4

あと、逃走、というのもなるほどにゃむ。勝手にまとわされる「意味」からの逃走とか。それをまとわされやすいことで植え付けられた反抗の精神とか。いくつか、それでもそれでしか有り得ないなあと思える世界に落ちていた言葉が、「意味」を逃れてそこにぽとんと落とされる時。それを間において、舞台から拡声器で宣言を続けながらvoidを見つめる猫さんがイントレの間に立っていたときの「存在」感(PortB『雲。家。』初演ですね)とか、宇宙的なブラックボックスでアンパン食ってた内田さんとかの「物体」感とか(たぶん2006年頃の地点『Jericho』ですね)とか。Zero Degrees の、二人のシンクロニシティと、アイデンティティの揺らぎと人間という「物体」が、この宇宙にあることとか。やたらめったら記憶を引っ張り出して混ぜ返す。思い出す。
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2014年07月14日

めもめも

記憶は体の外にある。相手との間に、誰かの中にしかない。私の外に、記憶が残る。私と彼との間に。私が、私だけでもっていると信じる存在は、不確かだ。誰も証明することはできない。何かを証明することなど、誰にもできない。証明するには、証明を、信じる人が必要だ。だけど、信じる人が証明の材料に足ると、誰が証明できるというのか。結局、信じることは、信じる人以外にとって、存在の証明にはならない。強い意思が引き継がれることはある。そうやって、歴史は続いてきた。これはレトリックではないけれど、ただの言葉遊びだ。ただのお喋り。もしかするとベケットさん的な、唯一残された、人間のそれ。けれど、ふがいなく、頼りない存在を確かめるには、私の言葉を聞く人が要る。なぜなら「存在感」は私と貴方の間にしか、生まれないから。存在を自分で持っていることはできる。けれどそれは信じることができるということに過ぎないから。貴方が変わったということでしか、私がそこにいたことを証明するものはないから。その時だけ、おそらく確かに、世界はあったんだから。
必要なのは、善意や善良さではなく、正確に知ってもらうこと。知った上で、そこにいてほしい。私の前で、私を見て欲しい。そして、ようやく、私はもっと見たいと欲する。欲することができる。
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