2014年07月13日

ヴォイド

その人、その場所、その時間のヴォイドはどこにあるか。
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2014年07月08日

回路全開

もっすごいちゃんと見つめられて見つめるうちに、距離が消失する感覚が訪れる。少し精度をあげて言い直すと、距離感が測れなくなる時間、というか。
相手の変化で自分の存在を知ることができるときのこと。
デプレシャンの映画でかっちょよく語られたそのときのこと、ぎゅんぎゅん変化する距離感の体感とともにまざまざと思い返した昨晩。
からの、カフェやばい。病院にいる一人一人やばい。人の存在感の、なんつーか立体感たるややばい。そこにいる人々の情報量はんぱない。そこにいる人々、いまここに人がいるってことが、とにかくとにかくやばい。

いかに日頃見てないか、見られてないかってことでもあるが、そんな反省はどうでもいーや、とにかく見るってすげえ。
見ることと見られることで動きだすことってすげえよ。
関わるってすげえ。存在の存在感たるや。あ、あ、これ映画だ、映画をやらなきゃ。映画をやらなきゃだよ。
でもってその前に、わたしはこの感覚、ろくでもなく頼りもないこの消えて失っていく感覚を、なるべく多くの時間もってたい。というか、もってないことになりたくない。自己演出か。やってみる。
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2014年07月05日

秋が鳴る

迷って、悩んで、震える言葉。
何も持っていない人、持つ事を想像しなかった人、欲しがらなかった人、自分以外のことにだけ全身を使い果たした人、あるいはその途上にある人。
欲しがる事に気付かなかった、あるいは気付かないように仕向けていた人が気付いたときの、欲しがる事に葛藤するときのこと。
消尽と、蕩尽は、この人に訪れるのだろうか。そのままであれば訪れたかもしれないものが、いっときの寄り道で、訪れなくなるのだろうか。それでもやはり寄り道が終われば。時が過ぎてしまって、忘れられずに、けれど忘れられてしまったら、やっぱり訪れるのだろうか。その時に訪れる時間は、拷問なんだろうか、甘美なんだろうか。何か単語には置き換えられない、ただよう時間の最中。そこに置かれた時、その人は。目は、手は? 指先は。内側の、あるいは外側の、先端は。
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2014年06月22日

さいかい

5,6年くらい前でしょうか、おしえてもらった私の一片。落ちていて、拾ってもらった石。なぜか親戚のように思ってしまうその人は、これ、君ももっていたらいいね、って手渡してくれた。
消尽にも蕩尽にも至らぬそのずっとずっと手前で足を止めもう随分長いこと、川の流れをみている今。
マンデリシュタームの『石』の一つにあった、私の一片。呟くと直接、中からも外からも直接、細胞に、脳幹に、点滴のようにゆっくりと。一滴、二滴。落ちては髄にまじっていきます。点滴袋を詰め替えて、詰め替えて。何度も。何度でも。
きっと、誰にでもそういう一片があるよなと思ったのは、茨木のり子展であまりにたくさんの人が熱心に、穴のあくようにその言葉を、見つめていたから。
出会ってくれる言葉があるよ。見つめさせてくれる言葉はあるよ。見つめてくれる言葉があるよ。見つけてくれる言葉があるよ、私を、渡す言葉があるよ。確かにあるよ、あったんだよ、そのことの驚きと喜びだよ。
さて、もう一度。

ぼくにあたえられた体、このたったひとつの。
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2014年05月09日

せつなるせつな

嘘を本当に仕立て上げようとする。それが本当であるか、というかというよりも、本当だと信じられるかどうか。本当とは、信じられるかどうか。描かれる人間の姿は、その人物がどのように生きるか、何を選ぶか、のデフォルメというか縮尺というか端的にそれをぎゅっと圧縮して抽出された言動。
現実に生きていたことの実証。実際に、貴方居たんですよね、ということの一つの解釈を通じた、再現の試み。再現の欲というのは、なぞるというよりも、もう一度、お願いだからそこにいてください、まるでさわれるもののように、そこにいてください、というもしかしたら刹那を裏切るような、切なる願いのもとに、なんとか生まれさせようとする、透明で形のない亡霊のようなものを、受肉させるような、なんとかそこにもう一度、出現させるような。憑依したってなんだっていいから、と言いたくなるような。お願いします、いたんですよね、あなた、立体的な人間として、いてくれたんですよね、本当に、いてくれたんですよね?
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2014年05月04日

よくよく

どう考えても共感を求める自分がいて、同時に理解できない完全なる他者との出会いを求める自分もいて、それは一つの中にありえるのだろうか、というか、ありえない事などありえない。のだ、というかくしんをもって、これの、この人の、このいのちのぶっとんだところはどこだろう、という探り。気付かないうちに浸透する共感を経て、一体化したかのようにいたのに、うわ、まじかお前裏切るのか、というほどのひっぺがしが一つの中にあるときの快哉。誰しも、何しも、絶対に理解しえない、理解できない、孤独が、ブラックホールだかダークマターだか、宇宙的な何かが必ずある。ということが、生命の、孤高の、輝きの、尊さの、自尊にも他を尊ぶこともできることになるのではないか、と根っこと幹の、どちらの始まりにもなる胚芽、というかでんぷん、みたいなものをねちょねちょぐちぐち、さなぎの中身のように、今。
あと、日本的「私感(わたくしかん)」と呼べるような、超主観、みたいなものがすげえ気になる気になる。努めて学んでわけいりたい、欲。
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2014年03月09日

処方箋を自分に出す

例えば、誰かに今自分がほんとのところどう思っているかを知ってほしい、という欲を、誰にどのように伝えればいいかって、伝わってしまうかって、自制できる部分とそうではない部分があるよな。

傷ついてその場にいる私を、私自身が(どんなに頑張って限界まで堪えたって)無視できないことの方がほとんどであって、それはたまに涙とか声とかで言葉とかボディランゲージとかで溢れて表層に出てきてしまったりもして。一人でいるときに堪えられないのはまだマシで、臨界点付近になるとやっぱその字義通り、周囲や外側に何が置かれているかに関わらず、内側の境界がなくなる状態に変化しうるのです。

かといってじゃあ知ったあなたから何か言葉が欲しいかって言うと、何を言われてもそんなもんはく○くらえ、と心底思って、蹴散らしてさんざん踏んづけてやりたくなるのも目に見えている。だから、誰にも彼にもそれを知ってほしくてたまらない欲をもつときに求めるあなたへの態度としては、私がそれを堪えた上でここいることをただ知って、それを汲み取った上であなたにもそこにいてほしい、ということなのかもしれない、と。

でも同時に、そんな風に、知ってほしいんだよこのやろうって言うことって子どもっぽいのかもしれないとか、言わないで堪えて堪えて踏みとどまる方が大人として、仕事人としてかっこいいんじゃないか、とかもまあ同時にうまれてくる。それに、堪えて踏みとどまってそこに居続けることをできた結果を、きっとそのプロセス込みで誰かが誉めてくれるはずだ、その気持ちをいつか未来に掬いとってくれる人が、かつての私の通り過ぎた気持ちを遡って想像して寄り添ってくれる人がいるはずだって願望でぎりぎり保つ方が、なんとかかんとかかっこよさにつながるんじゃないかって。
それを美学と呼んでいいのか、理性と呼んでいいのか。それはただの報われない辛抱なのか、わからないけど。

きっと多くの人は、こういう臨界点のぎりぎりを、不特定多数の人には見せずに、ごく身近な人にだけ打ち明けるか、たまたま立ち会ってしまった人に図らずもぶつけてしまうか、誰にも明かさずに閉じ込めようとして失敗するか、うまくやり過ごして血中に溶かすか、とかなんとかするのかなあと思う。
なるべくなら、こういう極私的な臨界点のあれこれを、たとえば技術でとんてんかんてんして、ああ、何か美しい実として結実できるように、私はなりたい。

ああでもやはり、いまここで透明になっていく私を、私は。
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2014年03月01日

手癖発動中

アウグストザンダーの写真を見るとものすごくいいなあというのとこれがやりたいんだよなあって思うんですけど、俳優として主体的にその実体でいてやろうとするってことよりも、それを見たいって欲の方が強いなあと今見て思う。俳優ならば、こういう風にいてやろう、それにはどうしてやろうとまず考えたいところなのだけど、すなおにやーこれは素敵だ、すごいなあ、存在って奴は、と思ってしまう方が自分を閉める割合はおおい。
というのと、この写真に映された人を俳優が主体的に目指したとしてそれって100%可能なのか。特定の先輩俳優を思い浮かべると、ああできる人いるなーたぶん99%肉薄しそうな人いるなーと思うのだけど、それってでもそこには一枚「俳優」という像がやっぱりあるのではなかろうか。つまり俳優自身の像とある人/役の重なり、あるいは自分自身と、描こうとする対象/役/存在が完全に分離できないものというのが、俳優というものの面白さであり、厄介さだなあと思う。10年くらいまえは潔癖だったので、その厄介さは邪魔でしかないと思っていたけど、もう少しそれも面白いなあ、それも楽しみの一つだなあと思うようにもなってきている。
そんなこととは無関係に、アウグストザンダーの写真はいつ見てもいいなあ。
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2013年12月24日

修羅シュシュシュー

映画祭帰りのブレヒトとロルカ。すこぶるよい。渋かっこいい。

ああそうだ、わたしたちは何をやってるのかって、不在の像のための背景になること。ある像がその場所に、そこの間に立ち上がるように、私たちもまたそこに、一所懸命に立ち会っている、いるんだなぁとすごく腑におちた年の瀬。主役はわたしじゃない。私が全力でここにいようとするのは、常に、ここにないもののためなのだ。
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2013年12月11日

想像の中のその人

例えば、マンガやゲームやたまに小説などなどの実写以外のキャラクターにハマってしまうと、「本編」では描かれないその人の違う一コマを捏造する、なんて行為がよくある。
そうするとき、そこには自分にとってのその「人」がいる。

そのときの行為って、その人の日常を私(だけ)は知ってるの、みたいなストーカー的偏愛というより、その「人」の存在を信じてしまっていて、いつの間にか自分の「世界」の中にその「人」がすっかり生き生きと息づいてしまう、住み着いてしまうので、その人の時間の違う一コマを自分の内側だけじゃなくて表に出現させたい、という欲求がそうさせているんだろうなあと思う。

あくまでも、「ストーリー」を持つものに限って、かつあくまでも「キャラ愛」に関して限定しての話です。
例えば映画を見ていてすごーい、これすごーいって数日単位で抜けられないような体験をしたときに何で自分の内側でその続きの捏造に至らないか。それには大きな理由を3つ感じていて、一つには「俳優」がメディアであるから、ではないか。映像がいくら影とはいえ、俳優は、ある「ストーリー」の中で生きる「キャラクター」である以上に、観客にとって、自分が勝手に手を出せない世界を既に持っている存在だと、観客は受け止めている(たぶんね)。生身の人間は、「生身の人間である」ということそのもので観客側にとっては既に破ることのできない輪郭があり、その言動などなどを勝手に捏造することはたとえ妄想だけであっても難しい、というか、したくならない。だって自分の意思の及ばない範囲でその人はそこにいる、それをのぞき見ているのだし、だいたい生身の人について想像することは、いつだってものすごく骨が折れる。
そしてもう一つには、例えば映画や舞台などを見るときというのは、自分の外の世界に自分が出て行くという体験だから。自分からその世界に出向くのであって、自分の世界の中に「その人」を引き込むのではない。だから、「その人」は自分の世界には息づかない。スクリーンに映し出された世界に鏡のように自分を照射する存在=自分の影を見つけることや、その世界が自分の世界観と反射しあって交感していく、ということはいくらでもあるのだけれど、映画の中にいる人々は「その世界に/で生きる人々」なのであって、自分の世界の中には息づかない。どこまでいっても映画は覗き見る行為で、それにより自分の側のスクリーンが破れることはあっても、映画館のスクリーンという窓が破けることは決してない。3つめは、まさにその映写が終わる時のこと。「その世界」と私のいる「世界」との窓は、向こうからぱたりと閉ざされるから。

一方、マンガやアニメやゲームやフィギュア(これは三次元だけど「動かない」からこっちに含める)や文字による二次元創作物。これは、どれも「その人」を自分の内側に存在させることができる。もちろんそれぞれに先行する「本編」があって、だから、その世界の中で動く彼らの言動や人格は既に決定されている。にもかかわらず、そこには生身の実体がない。想像に骨が折れる生身の実体がない、ということにより、観客は「その人」という存在を自分の世界に勝手に息づかせることができる。それには「本編」でのその人の存在感がリアリティを持つくらいにはしっかり立っていてくれないといけないのだけれど、そのハードルはわりと低い気がする。それさえ超えれば、いくらでも補完できてしまう。断片的に見せられているその人の過去や未来や、その細部を勝手に補完する。そして愛でる。「その人」が自分の世界の中で勝手に動く様を愛で続けられる。
それはずっと撫でていられる、自分が捨てない限りなくならない。最上級自分好みの毛並の愛玩物。その愛玩物を携えて、の白昼夢は他にはない、誰からも遮られず自分だけで完結する、どうしようもなくあまーい心地よい繭なのかもしれない。
誘惑に溺れるのは簡単です。ぬくぬくした繭の中で生育する蚕は、筋力や力が育たないため自然環境で自力では生きられず、飛べずに死んでしまうのだそうですけれど。

生身の人間は、決定的に、自分の外側にしかいない。そこには絶対に、境界線が、断絶がある。生身相手の想像には粘りや、肉体的なまた精神的な筋力、努力を要する。失望とともにひとり。手を繋ぐ、たまにとびきりの喜び。そしてまた一人。

とかなんとか。私は、書くことと話すことで考えている。
演じることで考えている? 物語ることで考えている? 嘘をつくことで考えている? ものを作ることで考えている? のかしら、とまた思う。
posted by hamigoe at 11:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記