2013年12月11日

はまりごと

「物語」って自分にとって、自分と物語、それはどんな関係なんだろうか。
つまり、一つに、私はなぜ○○に始まり今はそれより面白いと感じる■■というスマホアプリにハマっているのか、ということ。
私はそこで何をしているんだろう。何を楽しんでいるんだろう。中学生のときのようにアナザーストーリーを妄想しているわけではない。読んでいる時間の心地よさ、柔らかくて甘い余韻を楽しんではいる。そこに何を見いだしているのか、私はその時、何をしているのか。
何か、逃避のための避難所でしかないのなら、別になんでも良い気がする時期にさしかかっている。そういった理由で手が伸びるときも確かにある。でもその時期も過ぎて対象として捉えるようになって、衝動的にそれを繰り替えす、というのでもない形で今そこに向かっていて、だから、じゃあ今そこに向かうのは何故かっていうのが俄然気になってきた。なぜ今映画や小説や詩ではなく、そこにいっているのか。好奇心から徒に時間を費やす時期を過ぎてなぜ今、それなのか。
例えば実写ではなく、挿絵+文章で構成されているからいいのか。それが実体がないからいいのか。フィクションだからいいのか。フィクションの中でも、確かに通り過ぎてきた、かつて夢見た出来事が起こるフィクション、かつ、YA的な成長も見られる読み応えがあるマンガちっくなものだからいいのか。また、強制的第三者として存在させられるのではなく、そこに加担する(選択の余地)感覚があるからいいのか。「甘い恋愛」の「ストーリー」だからいいのか、読み進める先に幸せな展開が待っているからいいのか、キラキラした良い思いをする主人公に自分を仮託して、甘やかされている状態が、まるで自分がそうされているようで心地いいのか。うーん、どれもこれも一見そうかも、と思い当たるようでいて、でも的中してない。真ん中にある動機はそれじゃない。
消費するだけではいられなくて書き写す行為を始めたら思いのほかその行為そのものに夢中になって、それは案外読み返すためではないのだなということも気付いた。書き写す行為、それそのものが、私には今一つの愉悦です。

そしてもう一つ、今作りかけている小話の一人芝居を巡って、これもっと自分のこととしてもっと探求することがたくさんある、まだ表現は、体はその段階にまでいっていない、階段は割と順番にしか上っていけない。でも、と思うので書いておこう。
物語を物語らない、物語は私の与り知らぬところで勝手に進んでいく、物語を語らない、語るってこととか、騙るってこととか。
「芝居をする」、その滑稽さ、役者の恥ずかしさ、芝居上の「恥ずかしい」という演技とか、そういうことではなくて、役者の勘違いや、それが本当か嘘か錯誤するもの、という役者のなにか、「変な体質」みたいな存在「感」とか。っていうこととか。無駄でどうしようもなくて破廉恥で、それでもじゃあ何故役者はそこにいるのかって、そこに焦がれる人なのかってこととかを。もっと滲ませたい。しみ出させたい。「物語」への偏愛とそれができないことへの不審と、まんべんない上澄み的な愛で方とが今の私をかたどっていて、それを私の技術的な云々、はどんな風に顕わしてしまうのかって、そういうことなどを試すような、などが試されるような、そんな機会になりそうだなあとか思っていて。今、私の一つには、そういうことなのかもしれない。一つには。

映画美学校映画祭2013で上演します。
「葉桜と魔笛 2013年冬版」原作・太宰治 演出・佐野真規 構成・主演 中川ゆかり
12月21日(土)15:30〜(上演時間40分予定)。渋谷です。映画美学校の試写室です。

今年は去年よりちゃんと芝居をする、というのが一つの目的なんだけど、それと同時に物語を巡って考えることと、そうすることに立ち会ってもらう、ということが目的なんだなあと思ってきています。ぜひ、お立ち会いください。お待ちしています。
posted by hamigoe at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年10月28日

合掌

この人がいるからこの世界はまだ大丈夫、と勝手に頼りきっている人がいる。たいていの場合その人とは会ったことなんてなくて、しかもほとんどその人のことは何も知らない。だけどそれでも、その人の訃報で、その人がこの世界から消えたと聞くと、ああ世界は今大きなものを喪ったと、突然現実が壁のように目の前に立ちはだかる。その重くて粗いコンクリートのような灰色の壁に頭をごんとぶつけたような気がする。その壁のような塊は目の前でゆっくりと動き、ごりっと音を立てる。こういうときに聞こえるのはとにかく「ごりっ」という音だ。石臼がバランスを崩して堅い石同士がお互いをすりつぶすように削りあうときのような。それでも、それが聞こえても、あるいは一度聞こえた後、何も聞こえなくなったときの沈黙がどれほど重くても。石臼を回す手をとめてはいけない。今動かす手を止めているなら、むしろ急いて懸命に回さなくてはいけない。回して回して回し続けなくてはいけない。それ自体が加速して回す腕がちぎれそうになっても。あの人に続かなくてはいけない。あの人がさらに歩くはずだった道を、見えなくなった背中がそこにあると思い詰めて、前のめりで走っていかなくてはいけない。鍛えていない足はもつれる。どうせ1,2歩ですぐにつんのめってこけるのは目に見えている。それでもすぐに立ち上がってまた走り始めなくてはいけない。
posted by hamigoe at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年10月09日

でぃぎんぐなう

(表現として表層を扱う、というのではなくて、)
表面だけでつくろうとすると、手応えが浅い。掘ることに時間を使ってみよう、ぎりぎりまで。この自覚、10代のはじめ以降、初めてかもしれない。ようやく初めてって。成長おっせえなあ、我ながら。
posted by hamigoe at 13:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年09月18日

TAD ANO NIKKIDAY ONE

最近、すぐにとても素敵だなぁと思う。素敵だなーは瞬間に宿っていて、いかんともしがたく瞬間はすぐに通り過ぎるので、瞬間がいくらあっても忘れてしまうのです。だからまた瞬間瞬間、瞬間に素敵だなーとすぐ思えるのでしょうか。聞いてしまった。

今年は初めて年下のクラスに出会いました。これは階級のクラス、ではなく、学級、という意図です。集団、でもサークル、でもなくしっくりくる呼び方が見つかりすっきり。
素敵な時間を経験したクラスの一人一人が、わずかながらの自信や誇りを手にしてゆく様を近くで眺めることができた。割と近くで過ごしたけれど、私は字義通り眺めていた。わけなのですが、(先生が話してくれていたように、)自分なりの仕方でクラスの中で披露し練習し、見守る人々によって承認され少しずつ自信や手応えを蓄えていき、そして全く初めての人に披露する中で生まれる不安と揺らぎとまた欲望と、そして乗り越えたいみたいな活力などなど。そういったものを持つ自分に気づいてまた自分の手に確かにすることというのは、自分の内側だけでまごまご、乗り越えられなくてまごまご、うごうごしてたところから一歩出る、しかも外に気づく、出会う、みたいなプロセスとなり、その流れは如実にその人を伸びやかに、素直に形作っていく。その様を、たまたま他の場所でも見たりして、あーそれってなんか素敵だよねーと思った、思いました。

彼らはもうまもなくあっという間に、あのきれいなレンガ作りの壁とあんな街で不自然なまでに幸せにさやめく緑で守られた聖域から追放される。そのときはハードでコールドなレインだけではなく、堪え難い緩慢な時間などなど、外の荒さや無軌道や不条理との遭遇でもあるのでしょう。だがしかし、勝手にがんばれ、とすごく思う。たまには会うんだろう、そのたまにが楽しみだなーとすごく思う。この感じは私にとって人に対しての新しい関わり方で、これはとても新しいモチベーションになりました。

それとまた別の話。
自分が言葉でできていること、を折に触れて思う折、というのがまたごく最近の流れ。折と流れ、はプンクトとダーシみたいな物理的な違いがあるのに書いてしまいました。すごいミクロに細胞とかゲノムとかよくわからない小ささまで身体の粒に迫っていったら遺伝子のようなわたしを形作る線状の何かは文字だか音の波に模されてでできているのかしらん、とか思ったら傲慢かなあ。あ、というか元々そんな形なのかなあ。どっちでもいいか、そんな感じがしてきた。
自分勝手なことを申しますと、言葉をしゃべる声が自分の好きな範囲に入らないととても面倒くさい気持ちになるので、結局のところ、愛着や敬意を持っている人や状況をのぞくかなりの発話を面倒くさい、みたいな気持ちで聞いているんだなーと思ってぞっとします。聞き流す時間がここ数年格段に増えていますが、振り分けてサンプリングまでできたら結構いいこやしになりそうなんだけどそこまでできっかな、や、できねーな、とかなんかまた自分勝手なことだけを思う。

卵食べたからなのか、泣いたからなのか、少しずつシンプルになってきてホッとしています。
posted by hamigoe at 11:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年08月29日

ちゅーしょーや

FBのように書いたらとたんに読ませてしまうようなところじゃなく、でもどこか手帳じゃなくて、外に記録できるところで書きたい、と思って思い出してここに書き出しましたらば、ちょうど昨年の今日も書いていたというこの事実。今日は父の誕生日です。だからなのかな。

なんだかものすごく抽象、抽象だ、目指したいのは抽象なんだこのやろう、とかもがもがしていたら、ここ1ヶ月ばかり、尊敬する親愛なる全然別の場所で活躍している諸先輩方がやっぱ抽象って気がしてきた、とかいうのを直接聞く、というかそんな話をする。東京の北というか西というか、その辺りいったいにそういう風が吹いたのかもしれません。
抽象抽象ってじゃあそれっていったい、と、詩っていったいなんだろうとかどうするとそうなるのだろう、とかそういうことをくるくるしつつ、E・ディキンスンの詩集でとびきりを見つける。口ずさむ。

例えば同じ言葉の連なり、シークエンスを短い時間のうちに100回くらい繰り返してみると、この眼鏡で見たらそう見えた、的な断定にすぎない意味がするすると抜け落ち、何をやっているのか、何を言っているのか、聞こえてくるのかよくわからないけれどこの音はこの口になじんだ、この一連の音どもは体から染み出た、というような言葉の発し方、とそのときの体、のことを全然別の場所で体験していた人が話してくれて、それはとても良いですよね、その時間の感じ、という話をして、うんうんとうなずき合う幸せを思い出している。というかなんか最近のとてもうれしかった記憶を私はリフレインしている。こんな奇跡のような時間を反芻して、その後の孤独を思い出している。
その方はそれを通じて体感した変化を語ってくれて、そうだそうだ、私もそういうことから始まったんだった、ということで、初心に返ってそれを毎日やってみることにする。強くなりたいから。
posted by hamigoe at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年08月29日

冷静と情熱の手綱

お試しでみなさんの前で声を出してみて、今まで自分がやってきたことの、ある意味では手ごたえがありました、つまりは、わたしは「わたし」のない読み手であることに焦がれて、それによって誰かの「わたし」にはまってしまえたら「」になってあるいは溶かして、聴き手/読み手のわたしがくっきり、あるいは重なったりする声になるんじゃないのと夢に見ていた、、
ていうのは一つは明らかに、声であれと思っていた事実。

そんなところで今の課題、『言葉を届ける』、しかも私から届ける、この課題はひときわ大きなもの、しっかり向き合えたらしんのある身体と声をもった人間になる、なれるのだから、と夢に見る、、

さておき、具体的なテクストどないしよかね
posted by hamigoe at 12:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年08月21日

ぎうほ

昨日説明しようとしたことはなんだったのか、
自分をかすめている誰かの言葉、みたいなものなのか、
誰かのプライベートを代筆しつつも、
読む人のわたしがそこに荷担するような、のような。

ちょっとした飛躍もありますが
これまで、読むときの、
「わたし」という誰か
の言葉だから
誰でもさわれるというか、
誰のものにもなりそうな気がする感じを
面白いなぁとよく思っていた、とは思うのです。

と、昨日から始まった課題、
これから先も細々と続けていく核にできるはず、
だから、腹に力いれて育てる。
いつかはと思って恋してきた方にアプローチしてみるか、
最近会ったものたちと出会ってみるか。

と、今とても始めたい新しいことがある、
しかも良い予感がする。私以外の人にも。
ダッシュしたいけれどもちょっと大人にもなったのでまずは
準備と下調べから少しずつ。
posted by hamigoe at 12:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年12月09日

Into

ここで大事にしていることは、等身大の知性。フラジャイルなわたしたちの声と学び。学びあうこと。
演奏家でも歌手でも役者でもダンサーでもないわたし、じゃあ私は何よ、何ができるのよこの私を使って、これで一緒に、ここで、いまからここで、一緒にどこかにいくためにどうしたら良いのでしょうか、そういうことをやっている

プロフェッションをもちたくて学校に通い勉強している私、という私と同時にここにあるわたしは、いまからここで、レトフさんと、いつもの愉快な仲間たちと、立会人のみなさんと、かの地/知/血、に深くわけいっていきたい。

いまからここで vol.7 Into Soghomon Soghomonyan
posted by hamigoe at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年10月20日

まゆみとジャクソンは山の麓で蒼い風景をみた

鮮明な悲しみを曖昧にたたえた、わたし、たちのすがた、わたしの羅列、であるの、に、
こんなにも、ぎっしりとわたし、は、がめいっぱい、充満して、はちきれんばかりに、ちぎれそうな、あし、あたま、てくび、う、でであるのに、のばすて、のゆびの先、に、は、あな、のような充満したなにか、があるのに、かれ、ら、は目を、つぶらない、つぶらな、いし、狂わな、いで見る、見ている、はちきれんばかり、にふりまわされたからだ、から、だ、からまる、で、ちぎれ、て、いるのに、たしかにその両足の10本のゆび、は地面を掴んで、ごーごーとかぜは、びゅーびゅーと悲しみは吹き付けている、のに、かれらは全身、で全力で見ている。のように見えた、わたしには。

そしてそんなものを見たわたしは少し恥ずかしくなって、色褪せないモニターに向かっているうちに色褪せるわたしをおもって悲しかったんだよなぁ…


昨日見たマームとジプシーさん、とても良かった。
posted by hamigoe at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年09月06日

re;searche

数か月前に買ったまま読めなかった「小説トリッパー」掲載の高橋源一郎さんの「非常時のことば」をようやく読む。ようやっと、読めた。

やっぱり私はあの後、言葉を探していたんだ、と思い当たる。探しきれなかった、喉の奥には何もなかった、ので、開けたままの口に米や肉や野菜や魚、缶詰、菓子を詰め込んできたのか。出口を塞ごうとしたのか。と言うほど、その前と大きく違うほど過食したわけではない。のに、意味を持たせようとした、いま、また嘘をつこうとした。

太田省吾さんの「水の駅」が見たい。

冬に、春に、また何かできそうな気配。わたしのアプローチ、今のletter、嘘のない嘘、を/について、考える。
posted by hamigoe at 10:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記